こころ (新潮文庫)/夏目 漱石


読んだ本:『こころ』 

著者:夏目 漱石

出版社:青空文庫

読んだ日:2011/5/20~5-25

ページ数:409頁



まとめ:(※ 一読された方向けに書いていますので未読の方はご注意を)

『こころ』は私の高校時代においてもっとも印象深い作品。

文学における「死」のインパクトを初めて味わった作品ということもあるが、

何よりも一生忘れないであろう印象を植え付けてくれたのは国語の担当教員の発言だった。

「『こころ』って海外では同性愛小説として有名なんだよね」


当前だが、まったくそういう目で作品を見ていなかった私は、大きな、とても大きな衝撃を受けた。

まさかと思いながら、これまでの文章の中で“それらしき”証しを回想してみた。

すると、変な好奇心が私の理性をいたずらに導くのか、思い当たる節が出てくる、出てくる。


「そういうことだったのか」

自分の中でその仮説が証明された途端、喜んだ

いや、同性愛小説だったからということだけではなく、

かの文豪 夏目漱石が同性愛小説を書いたということに対して喜んだのである。

言うなれば、親が我が子の思春期の証しを見つけて、ほくそ笑むような心境。

そんな不純な舞い上がりによって、一生わたしの心に残る作品となった『こころ』。


しかし実をいうと『こころ』は「先生と遺書」の部分しか読んでいなかった。

「先生と私」「両親と私」「先生と遺書」の三部で構成されているこの作品、

教科書として取り上げるには長過ぎるため、ラストの「先生と遺書」しか扱われていなかったのだ。

それでも、その一部で色々と満足してしまった私は全編を読まずに、今の今まで生きてきたのだが、

高校時代をともに過ごした友人が、一人で楽しそうに『こころ』フィーバーを起こしていたので、

その様子にそそられ、読破するに至った次第である。



初読から6~7年経った今、初めて全編を通して読んでみると、

残念なことに、自分が作り上げた同性愛小説としての印象の『こころ』は、ことごとく崩れ、

代わりに、22歳である自分と登場人物たちの若々しい苦悩がぴたりと一致した、

まさに小説として、新たな印象が自分の中に形成された。


『こころ』は、夏目漱石が40歳後半に書いた作品らしいが、

書き手である夏目漱石に「青春を通過した者」の観点が備わっていることで、

より鮮明に強烈に若者のこころが描き出されているのだと思う。

いま「若者」である自分と、それを傍観しながら静かに紡いでいく著者。

この距離が妙に安心感をもたらし、若者の私としては信用して読んでいくことができるのだと思う。


感覚的な筆致で描かれる若気の煩悶や勝ち気な青さに、

思わず我が身を振り返って、苦笑してしまう場面がいくつもあったが、

50歳近い夏目がこのような感覚を失っていないということに先ず驚く。

たとえば、「私」が大学を卒業したことを無闇に喜ぶ父の純粋な心に対して、

悪しき欺瞞で歯向かったゆえに心がねじれる描写など、あぁ凄いの一言。

まるで自分が「私」となって、罪を犯したかのような苦々しい気分にさせられる。



夏目漱石は読者の“こころ”をねじる天才だ。

本人は意識していないかもしれないが、

『こころ』を読んでいた5日間の私の心情は、ずっと揺さぶられ、ねじられ続けていた。


中でも、今回の読中での個人的ハイライトは、

先生がKと「僕」に対して、突如にとる形勢逆転のパワーゲームだ。

最初は自分に好意をもって近寄ってくる「僕」に負い目を感じ、ずっと弱気でいた先生が、

勝ち気な態度で、自分をやり込めようとする「僕」に対し、不意に余裕綽々と立って用を足したり、

威嚇ともとれる自身の執念深さの宣言をするところや、

同じく、劣等感を感じていたKに、彼の迷いと人生観を逆手に一気にひねり潰すところなど、

先生という人間の人間らしい醜さには徐々に悪寒がしてくる。

それは飽くまで、先生が“普通の人間”だからこそだ。

精神異常者でも鬱病者でもなく、普通の人間が垣間見せる悪魔の部分だからこそ、

普通の人間である自分として深く共感し、人間の恐さにぞっとするのだ。


まさに太宰治が怖れる「不意に虻を叩き殺す牛のしっぽ」である。

善良な市民が突如見せる残虐性やエゴイズム。

先生が忌み嫌い、人間嫌悪の原因となっていた「牛のしっぽ」を

先生自身が持っていたという皮肉は、なんとも救いようがない。

けれども、この救いようのないアイロニーこそが人間の本質なのだと私は思う。


嫌悪するものは自分の中にもあるからこそ嫌悪できる。

美しいと感じるものも自分の内にあるからこそ、美しいと感じることができる。

だからこそ、この『こころ』という作品は、真の意味で私にとっての小説となり得たのだと思う。


青春時代にあらぬ思い出として刻まれた『こころ』。

22歳となり読み返してみて、やっと概要が掴めたところ。

むかしは若かったと言っても、大人に笑われずにすむ歳になったころ、

初老の夏目漱石が描き出した“こころ”がいよいよ見えてくるはず。

今の自分が感じた“こころ”をここに記して、その日を楽しみに待とうと思う。
















ありがとうございました。


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いのちのまつり―「ヌチヌグスージ」/草場 一寿


読んだ本:『いのちのまつり―「ヌチヌグスージ」』 

著者:草場 一寿 (著), 平安座 資尚 (イラスト)

出版社:サンマーク出版

読んだ日:2011/5/19

ページ数:27頁


まとめ:

母には普段、読んだ本の話はしない。

どうせ分かってくれないと思っているから。

けれど、この本の話はなぜかどうしても伝えたかった。

諦め半分で、わかりやすく母に朗読をすると、普段まったく感動しない母が、

「へぇー!」と感銘を受けたようで、

おもしろかったのか、感動しすぎたのか、しまいには笑い出していた。

これには娘の私でさえ驚いて、やっと初めて、母に伝えたいことを伝えられた気がした。


この絵本には、国を超えて、世代を超えて、大切な何かが伝わる大きな力がある。

それは、この絵本の「しかけ」が、人類における揺るぎない“事実”を体感させてくれるからだと思う。

子供からお年寄り、日本人から外国人…
つまりは、全人類に大切なことが伝わる、ノンボーダー絵本といっていいかもしれない。



本題:

あらすじ…

沖縄に初めて遊びにきたコウちゃんは、石の家の前で人々が陽気に踊っている不思議なおまつりを見つける。

島のオバアにきくと、それはご先祖さまのお墓参りだった。

「ぼうやにいのちをくれた人は誰ね~?」

オバアの何気ない一言から、コウちゃんは自分のいのちの秘密を知ることになる。



絵本に泣かされたのは、これで二度目だ。

一度目はシェル・シルヴァスタインの『おおきな木』を初めて読んで、

中学生ながら無私の愛の精神に感動し、本屋で嗚咽するほど号泣したのを覚えている。


だが一度目と違ったのは、この絵本に泣かされたのは二度目に読んだときということだ。

一度目に読んだときは、驚きと喜びが入りまじった感動を感じたが、泣くまでには至らなかった。

しかし一ヶ月後、二度目に読んだときは、朗読しながら読んだせいもあってか、

なぜか最初から目の奥がじんじんと熱くなって、最後の「しかけ」のところで、

とてつもなく大きな愛に抱かれていることを体感し、嬉しすぎて思わず泣いてしまったのだ。


自分が生を授かり、今ここに存在していることの奇跡。

星の数より多いかもしれないご先祖さまが、いのちを繋いでくれたことへの感謝。

そしてなぜか、そのご先祖さまたちに、とても愛されて応援されているような満たされた感覚。


さまざまな気持ちがラストの「しかけ」の圧巻さとともに込み上げてくる。

私の場合、そのさまざまな気持ちによって導きだされたのは、大きな大きな使命感だった。

命を繋いでくれた数えきれないご先祖さまから頂いた、価値あるこの命を絶対に輝かさなければいけない。

そう、魂の底から思わずにはいられなかった。



ここに自分が存在していることがどれだけ有り難く、すごい奇跡であるのかを感じ知ることができれば、

きっとより輝きながら人生を送っていけるのではないだろうか。



本当にすばらしい絵本。

ぜひ一冊携えて、大切な人に朗読してみてはいかが。










ありがとうございました。



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「日本人は愚かだ。」

知り合いの韓国人と話すと、決まって毎回のように出てくるのが日本否定。

私は日本人ではないけれど、偏見に満ちた日本否定を聞くと、

つい苛立って、負けじと韓国否定をしてしまう。


だけれど、反対に日本人から、台湾や韓国、中国のことを否定をされると、

途端に反日感情が生まれてきて、

「日本だなんて…!」と心の中で日本への嫌悪感が渦巻いたりする。

否定する方も愚かだけれど、「なにくそ!」と反発してしまう方も十分愚かだ。

こういった些細な強がりやプライドが、民族間の歩み寄りを阻んでいるのだと思う。



つまるところ、私はどの国に対しても愛着心や嫌悪感など抱いていない。

否定されれば擁護するし、

好きだと言われれば嬉しくなるし、

嫌悪されれば悲しくなる。

どこにも属せないからこそ、擬似的なプライドや感情表現によって、

“属している”という気分に浸っているのかもしれない。



きっと、私が民族を否定されて反発してしまったのは、

所属感を味わいたかったからなのと、

“批判” ではなくて、“非難” をされたからだ。


“批判” と “非難” は違うと、尊敬する教授から教えていただいた。

自分で見極めて判断をするのが “批判”、

頭ごなしに否定をするのが“非難”なのだと。




政党批判、宗教批判、異文化批判…

テレビをつけても、新聞に目をやっても、ネットの掲示板を見ても、

そこには、批判という皮を被った「非難」ばかり。


非難の裏側には、惨めな自己肯定が潜んでいる。

「中国人ってマナーが悪くてダメね。 (日本人はマナーが良くて高尚な民族!)」

「ユニ○ロを着てるなんてありえない。(私はブランドものの良い服を着てるわ!)」

「○○業界にいるなんて人生終わってる。(私は安泰な□□業界で働いているの、良いでしょ!)」


人は非難をすることで自分を正当化し、安心感を得ている。

ではなぜ、非難によって安心感を得る必要があるのか。

それは、自分の存在に、思想に、哲学に、自信がないからだ。

自分に自信がなく“負い目”を感じているからこそ、他者を非難することで自分を装飾する。

装飾して、偽って、自分を騙して、アドホックな安心感を得る。


そう、非難とは「自分への嘘」なのだ。

そこには思想も何もない。

ただの強がり、ただの自己肯定。


そんな稚拙なプライドによって、

社会には、世界には、人類には、溝が生まれ争いが起きている。

個人が個人を非難し、民族が民族を非難し、国家が国家を非難する。


その姿はまるで、

饅頭が二つに分かれて「俺の方が甘い」「いや、俺の方が甘い」と言い争っているよう。

「お前はしょっぱいだろう」「お前はとても苦いよ」

本当はどちらも甘くて美味しい饅頭なのに、

“自分”に自信がなく、自己肯定して安心感を得たいがために、

相手を非難して、自分にまで嘘をついて騙している。


原因は、本当に些細で稚拙なプライド。

最初は形さえ見えないほど小さいものだったのに、

他者を非難をして、自分を騙しているうちにそれは肥大化し、

自分の言動や行動までもをコントロールしてしまう。

果ては、一番大事な “思想” の部分までもを。





サン=テグジュペリの代表作『星の王子さま』に、このような一節がある。
(以下、引用)


いい草木もあれば、悪い草木もある。ということは、いい草木の種もあれば、悪い草木の種もある。
でも種の姿は見えない。種は目覚めの時まで、土の神秘の中で眠っている。

そして芽を出すと、最初はおずおずと、太陽に向かって、そのかわいい小心者の小枝を伸ばす。
もしこれがダイコンやバラの小枝だったら、そのまま伸ばしてあげればいい。
でももしこれが悪い植物だったら、そうと分かったらすぐ引っこ抜かなくてはならない。

小さな王子さまの星には、まさにそうしたとんでもない種があった・・・・・・
それが、バオバブの種だったのだ。
しかも星の土は、種だらけだった。

そもそもバオバブは、抜くのが遅くなると、二度と取りのぞけなくなる。
そうして星全体をおおう。

「毎日のきまりにすればいいんだよ」のちに王子さまは言った。
「朝、自分の身づくろいがすんだら、今度は星の身づくろいをていねいにしてあげるんだ。
それでそのとき、これはバラじゃなくてバオバブだってわかったらすぐに、きちんと抜くようにする。はじめのうちは、バラとバオバブってよく似ているから。
おもしろくもない仕事だけど、とってもかんたんさ」”





心に生えている芽は、バラなのか、バオバブなのか、

自分としっかり対話すれば分かるはず。


妙なプライドで生まれてしまったバオバブの芽は、自分と向き合って摘み取ればいい。

個人や社会、国家が立派に育てあげてしまったバオバブの大木は、

時間が掛かるかもしれないけれど、一人ひとりが心にバラを生やし、

世界をバラで埋め尽くして倒していけばいい。

キレイゴトだと感じるかもしれないけれど、私は本気でそう思う。


きっと難しいことではない。

王子さまが言うように「とってもかんたん」なこと。

ただ、ちょっとした勇気と自制心がいるだけ。


そう思いつつも、できないでいるから、

けれど、そう在りたいと心から想っているから、

こんなコラムを書いて自分に言い聞かせています。

まだ、バオバブが“自分”にならないうちに、

誰もが自分らしいバラを育めるように、祈りを込めて。















若し、こんな長い文章を読んでくださった方がいましたら、

こころより、感謝申し上げます。






ありがとうございました。