1968年と69年、NACの塩沢進午代表の尽力により富士スピードウエイにて日本カンナムレースが行われました。当初の計画ではワークスマクラーレンやシャパラルも来日予定でしたが、ラスベガスのスターダストGPの事故で急遽これなくなりました。あのシャパラル2Gが富士を走っていたらと思うと残念ですね。
イメージ 1
御存じ茄子紺にストライプはペンスキーチームのマクラーレンM6です。
イメージ 2
昔からペンスキーのチームのマシンは他のチームに比べて手の入れようが違い高い戦闘力を発揮しました。カタカナのサンスペシャルの文字が泣かせますね。スパークはアメリカでのレース仕様は前にリリースしてますが、わざわざマイナーな富士仕様を出すとは驚きですね。
イメージ 3
ちなみにこちらは優勝したピーターレブソンのM6Bでフォードエンジン搭載車ですね。
イメージ 4
イメージ 5
富士のパドックでM6を押すダナヒュー。後ろで押すのはペンスキーとキャロルシェルビーです。
敵同士が和気藹々する当時のカンナムレースの様子は風戸と一緒にカンナム遠征した猪瀬メカも語ってました。
イメージ 6
実はこのレースに日産のエース高橋国光氏が安田氏のローラで急遽決勝レースに登場しました。あまり話題にはなりませんでしたが、凄く興味深いですね。当時のワークスドライバーがワークスカー以外のマシンに乗ることは厳しかったので偵察の意味合いがあったのでしょうね。トヨタはしっかりトヨタ7を出場させてますが、福沢が4位になるのが精いっぱいでした。
今思うとこのレースにはいろいろ深い意味が隠されていると思います。当時は日本GPを中心にTNTの戦いが熾烈を極めていたし日産もトヨタもカンナム計画がありました。NACはその後JAFと決別して事実上つぶされたし、トヨタ・ニッサンの69年を最後にレースを縮小しプロトタイプの開発は終わりカンナム計画は中止されました。
プロトタイプのスポーツカーに乗りたかったワークスドライバーは73年の黒沢元治日産退社をきっかけに解禁され富士GCにぞくぞく登場しました。国さんはやがてこのレースにも出場した酒井正氏のチームからGCに登場しましたね。
ロジャーペンスキー、トヨタ7、国さん、同じ富士スピードウエイに一緒にいたのです。それは日本のマシンがカンナムに最も近づいた瞬間でした。