浅尾社員が桂へ転勤になった経緯を説明すると、

私は、彼がいることでこの店の売上は上る事は無いと

確信してしまったのでとにかくこの店から出て行ってもらう事を考えた。

そして、副代表に直訴した。

副代表、浅尾社員がいる限りこの店は売上を上げる事は

出来ますが、トップ店にする事は出来ません。辞めて頂くか

営業以外の仕事をさせるか、他店に出して下さい。お願いします。」

と懇願した。そしてそれが通った形となったのである。


これでやっと一つの仕事が片付き、そして補充として

20歳の女性新人営業マン東岡さんが加わり、

新しくスタートを切った。


最初は前途多難であった。

社会人経験がほとんど無い新人社員が2名と私の3人の

営業スタートである。私は社会人としての基本と、営業としての

基本をト同時平行で教える事になった。特に井上社員に

トコトン教育した。大きな声で話す事。相手の目を見て話す事、

ジャスチャー付で話す事、バイタリティーが大事だという事。

義理・人情・なにわ節の大切さ。時間を守る事、そして

何よりもウソをついてはいけないという事。

それを毎日毎日、繰り返し言い続けた。

時には長渕剛ばりのケリをカベや机などに入れたりもした。

チンピラ顔負けの怒鳴り声を上げる事もしばしばあった。


しかし、それは愛情あってこその行動だった、100%言い切れる。

こんなに愛情をもって人に接した事は初めてである。

彼を親兄弟以上に思っていた。そのおかげもあってか、

数ヶ月で売上は配属前よりも3倍ぐらい上った。

売上順位の15店舗中、10位から13位ぐらいだったのが、

常に5位までには入るようになった。

ようやくトップの座が現実味をおびてきたようだ。

                              つづく

私は、部下2人に当社の物件冊子を渡し、コンビニに行って

置かせてもらえる用に交渉するよう、指示した。

30部1件3冊置くとして10件分だ。もちろん、新規開拓だ。

私は、以前伏見センターで、研修生の時、3時間で20件程

置かせて頂いた実績があるので、

AM中には終わるだろうと考えていた。

私の20件の時は、徒歩だったが今回は車で行っても良いと指示したので、

営業力の違いがあっても10件だったらいくらなんでも

午前中に終わると判断したのだ。


ところが、どうだろうか?午後3時になっても

連絡一つ来ない。私はたまりかねてポケベルを鳴らした。

返事の電話があったのが、その1時間後だった。

私は夕方から仕事を1件、部下に言い渡すつもりだったので、

とにかくすぐに帰って来いと指示をした。

そして帰ってきたのが、それからまた1時間後だった


帰ってきたらすぐに私は2名の内、上司にあたる

浅尾社員に質問をした。

「遅くなるのは仕方が無いがなぜ、時折電話をしてこないんだ!

それに私がベルを鳴らしたらすぐに、電話をかけてこなかったんだ!!」

と叱った。その答えが、こうである。

電話をかける様にと指示されなかったですし、ベルが鳴った時も

近くに公衆電話がなかったんです。それに言わせてもらいますけど、

電話代は会社から頂いておりません。私は・・・」である。


もういい、で、何件置いたんだと聞くと3件です!と返ってきた。

私はこの時、商社時代に社長に言われた事を思い出した。


人が人を変える事なんて出来ないんだ。

天狗、肝に銘じておけ


私は、浅尾社員をどうしたら会社を辞めてくれるかを

考えていた。1ヶ月後、彼は転勤で桂センターへ行った。

                                  つづく

部下は3名だった。営業が3名と事務1名。

営業の内訳は私と同じ歳と女性事務の内田社員だ。


初日、朝一番に浅尾社員と井上社員に車両点検を行うよう指示した。

車両数は、2台で時間にして長く見積もっても30分という所だろう。

しかし、待てどくらせど2人は帰って来ない。もうかれこれ90分である。

私も初日という事もあり雑用に追われていたので、現場に向かう事が

出来なかった。2時間過ぎ、やっとの事で2人が帰ってきた。

私は上司に当たる浅尾社員に、何でこんなに時間がかかったのかを

問うと、「結構時間かかちゃいまして・・・」との事。

その言い方と態度を見てこれは改革をしなくてはと感じた。


浅尾が外出の時、井上社員に車両点検について問うてみた。

すると、バツが悪そうに「語ってました」という

「しゃべっていた」ではなく「語っていた」と言うのである。

私は原因は上司の浅尾にすべてあると確信した。


井上社員は歳こそ20歳半ばであるが、大学を出て初めての

就職であり、しかも2ヶ月目というのだ。

ヒナが始めて親を見るのと同じで、良い親もいれば

ダメな親もいる。井上社員が浅尾社員の色に染まってしまう。

社会人として、働く者としてちょっとマズイなと感じた。

私はある意味、センター長としてやる気が出てきた。

それこそ困難さんいらっしゃ~いである。

これから私、天狗の一世一代の大改革が始まるのである。

                              つづく

私は会社側の条件をのみ、山科店へ転勤となった。

会社の全営業マンの中では、全員がトップテンに入るような

顔ぶれだった。しかし、私は全く仕事に力が入らなかった。

山科勤務だけは、イヤだとあれだけ面接の時に言ったにも

関わらず、山科勤務になった事や、新人にも関わらず京都駅前で

優秀な成績だったのかが分からず移動になった事。

会社に対して、不信感がありすぎた。


正直、転勤してからの3ヶ月間程、マジメに仕事をした事は無い。


遊び感覚で、出勤していた。だから、うわべの会話はしていたが

本心を決して話す事はしなかった。しかし、為になった事はあった。

会社の考え方や人間関係、派閥や体質など、いろんな事を教わった。


この時はどうでも良いと思っていた事が、のちのち非常に

役に立った。


そして、あっという間の3ヶ月が過ぎ、私は晴れて

四条大宮店のセンター長となった。役職は主任だが、

実質店長みたいなものだった。


私はこの時もう既に独立を考えていた。


なので、私が社長だったらどう考えるか、

どう対処するか、そしてそれが正しいのかどうか

試すにはもってこいだ。独立といっても当然、会社に

恩義があるので、最低3年間は何があってもここで頑張るつもりだ。

そして、この会社に私天狗がいたという証を残そうと思っていた。

私は今まで学んだ事を出し切り、実質経営者に対しても、

上司・部下に対しても自分の信念を決して曲げず、

部下に対しては特に心を鬼にし、仕事とは何なのかを教え

正義や情けを共に問い戦友となる覚悟を決めた。

                             つづく


伏見センターでの3ヶ月の新人研修が終わり、

私は所長代理と一緒に京都駅前センターへ移動となった。

私は、何の為に伏見で研修をしていたのか、意味がない事は

ないのだろうがそれが薄い感じがした。理由としては、京都駅前の

主任が、草津に転勤だという事で、私が抜擢されたという事らしい。

又、所長代理が京都駅前に転勤という事で、

私を引っ張ってもらったのかも知れない。

腑に落ちなかったが、これがサラリーマンの定め、納得するしかなかった。


12月だったと記憶している。私は営業1ヶ月目より絶好調だった。

今までの職歴での営業に較べると、こんな事言うと叱られるが、

本当にやさしかった。私の成績は、うなぎのぼりで気がつくと

京都・滋賀エリアでトップだった。しかし私は、全く喜んでなかったし、

天狗にはなり様もしなかった。この頃でも未だに大失恋の尾を引いていた。


毎晩疲れて眠くなるまでひたすら走る儀式を未だ続けていた。

以前の崇高な志は今だ持てずにいる。そんな時、所長代理から、

わずか1ヶ月での転勤を言い渡された。山科センターだった。

所長代理は必死に転勤を阻止しようとしたらしいが、ダメだったらしい。

しかし、トータル4ヶ月で2度の転勤とは、しかも係長が草津に転勤なので

その補充で私が山科に行く羽目になったとの事だった。


しかし、幹部の人たちは、私が拒否すると思っていたらしく、

条件をつけてきた。その条件は、3ヶ月後の4月には京都本店で

センター長の座を空けておくとの事だった。

                                   つづく

入社3日目位に所長代理より、久御山町の方に

案内に行ってほしいと言われた。営業マンの人数が足りなくて急遽、

私と同じく新人の本田君(22歳位)とで、現地に待ち合わせで車で出かけた。


お客は2人住まいの母子家庭で母は保険販売をしていた。

物件が良いかどうかの判断も出来なかったが、本田君は

営業が初めてということだったので、私が接客する事にした。

話す感じからすると、強い目に押すと申込は取れると確信したが、

何ぶん初めてでしかも、契約のルールや作業も全く習っていなかったので、

再来店の約束だけ取り付けた。


所長代理が戻ってこられてすぐに内容を報告すると、

私に任せるとの事だったので、本田君に引き継ぐことにした。

実は私に少し意地悪をした。強く押し、巧みに心理戦を使えば

契約は出来ると感じていた。(しかし、紹介した物件ではなく、仕切り直しが

条件)しかし、私は、自分の営業感が正しいかどうか、試したかったのだ。


結果は、申込は頂いたが結局、土壇場でキャンセル。

しかも、本田君はその客から生命保険に加入させられていた。

本当に“本田君ごめん”と心でつぶやいた。


私なりに不動産賃貸の営業も、他の仕事も、私の経験も

すべて同じ道理と方法で問題はないと確信していたが、

万が一の事を考えて、今のうちに自分の考えが正しいか

どうか試したのだ。


そして、見事ほぼ100%私の予想は的中した。

一つだけ違ったことは、お客様は私と本田君が最初に紹介した

物件で申込をされたことだ。つまり、お客は始めから契約する気はなく、

本田君より生命保険の契約を狙っていたのである。

手前味噌であるが、担当が私のままだったらそうはいかせなかった。

                                 つづく

別れを告げた私は、彼女の返事待ちの状態だった。

彼女はベンチに座り、かなり悩んでいる様だった。それが私には、

悩んでいるフリにしか見えなかった。数分、考え込んでいた彼女は


「わかった、別れます」と言ったのだ。


私は、少しでも「イヤヤ、別れないで!」と言って欲しい反面、

今までの抱えていたプレッシャーが少しほどけた様な気持ちだった。

が、自分から切り出したくせに、心に穴がぽかんと空いた様だった。


人生が終わったような気がした。


もう二度とこんな恋愛は出来ないと思っていた。

好きで好きでたまらなかったくせに、自分から別れを告げるなんて・・・

でも、それは本当に彼女の為だと思った。足を引っ張りたくないと

心から思った。


その後の2、3ヶ月は仕事以外で何をしていたのかも、

私には全く、未だに記憶がない。ただ一つ、覚えているのは、

伏見区の河川敷を夜11時頃から疲れて走れなくなるまで、

毎日毎日、とりつかれた様に無心で走っていた。


仕事をはなれたら、彼女の事が忘れられないのだ。


忘れようとすればする程、良い思いでだけがよみがえってくる。

まさに「もう恋なんてしないなんて言わないよ絶対」

という気持ちだった。しかし、これを機に、私天狗は

経営者になる事を決意したのだった


自分の将来が全く見えない。今まで頑張ってきた努力を

発揮できる場所がない。暗闇の中で、一人もがいている様だった。


そんな時、東京時代から付き合っていた彼女が京都に遊びにやってきた。

約3ヶ月ぶりだった。彼女についても、いろいろ考えていた。

京都駅まで迎えに行くと、彼女は少し引きつった笑顔で私を待っていた。

私は「ひさしぶりぃ~」と言って彼女の太ももを「ポン」とたたいた。

すると彼女は「イターイ」と言って私をにらんできた。


私は彼女とひさしぶりに会って数十秒で、別れる決心をした。


早い決心だと思うかも知れないが、私にとっては

それまでにこの京都でそこそこ頭をフル回転して、仕事の事

プライベートの事、人付き合いや家族や親戚の事など考えていたので、

決心は早いがそれまでの過程はとても長かったのだ。


彼女の事は真剣に考えていた。出会ったのが彼女が18歳。

決していいとは言えない環境で生活をしていた。

通信制の高校へ行き始め、見事卒業して漢方の仕事がしたいと

言うので中国への留学をすすめた。彼女はイキイキしていた。

年も20歳をこえ、勉学に励み夢をかなえる為に京都大学を

受験するとまで言い出した。

それなのに俺は、夢のカケラも達成する事が出来ず、

現在は無職である。俺なりにもがき続けているが、彼女には

何も言い訳出来ない。彼女の前向きさと俺のあがき方には、

ギャップがありすぎた。


家の近くの公園で別れを切り出した。

俺と彼女は別れるべきなんだと。あれこれ理由をつけて

しゃべりまくった。

                      精一杯の強がりⅡへつづく

住居が決まり、あとは職探しだ。

職種はもう決めている。賃貸マンションの仲介業者をあたる事にした。


住居探しの時の営業マンが印象に残ったのと、今まで

攻める営業しか、経験がなかったので、待ち営業も一度やっておこうと

思ったからだ。


全国展開しているイエローホームに面接に行った。

代表と言う肩書きの方が面接官だった。何か歩合についてその会社特有の

ネーミングがあり、又それの説明もなかったので、説明を聞いても

チンプンカンプンだった。給料を求めている訳でもなく、何か野心があった

訳でもなく、採用してもらえればそこそこ数字は残せると確信していたし、

勤務地が山科でなければどこでも良かったので、その条件だけを了承して頂き

後日、電話があり無事採用となった。


まず。研修期間が3ヶ月あった。私は伏見センターへ配属となった。

初日、店へ行き少し驚いた。床がとても汚れているのだ。

上司に許可を頂き、床用洗剤を買いピカピカにはならなかったが、

ある程度キレイになるまで磨いた。廻りの人達はキョトンとしていた。


2日目、実際の直属の上司と会った。北村所長代理だ(以下所長代理と呼ぶ)。

(後に私は北村氏に深く可愛がられ、今でも感謝している)

その時の印象だが、仕事はそこそこ出来そうだなぁ。そして、

営業の初歩的な基本は理解している方だった。

まぁそんな人はたくさんいるだろうと思っていたが、

実はそうそう所長代理の様な方はいなかった。


そしてこの方がいなかったら、私はとっくに辞めていたかも知れなかった。

                                  つづく



とにかく、またもや廻りに振り回される形になってイチからの職探しとなった。

今回は、妹と一緒に住まなければならない。どんな迷惑を

かけるかも知れない妹を、しっかり管理せよ!とのご親戚様のご意向である。


職と住居を同時に探すのだ

なんか数年前にも東京で同じ事があった気がする。

とりあえず山科駅前の愛知本社の全国展開をしている、不動産会社に入った。


私の出す条件は2LDKで兄弟入居、保証人は無職の母で

契約者である私も、無職である。無理は承知である。

場所はこだわらないが、家賃は8万位でおさえたいと伝えた。

担当者は新人の若い男性だった。最初はなかなか見つからなかった。


私が無職というのかネックである。


ただし、その若い営業マンは諦めなかった。

何時間も時間をかけてやっとの思いで伏見区の物件を出してきた。

そして物件を見て、私は即決で決めた。


しかし、ここからが大変だった。

管理会社が、入居を断ってきたのである。当然と言えば当然である。

本人無職で、保証人も無職なのだから。


ところがどっこい、そこで終わる私ではない。


私は今まで人に迷惑をかけた事もないし約束は守る。

どうにかして入居させて欲しいとその若き営業マンに懇願した。

その営業マンは困ってしまったのか、直属の上司に相談したようだ。

すると、その上司は管理会社にかけあってくれて、

面接をするところまでこぎつけてくれた。


ありがたかった。これで入居はOKだと確信した。

面接をするという事は、入居OKの可能性があるという事で、

私の背景を知ってのことだ。私が断られる理由がない。

思ったとおり面接は、1分程で済み入居のOKが出た。

                                  つづく