「拓哉君・・!」

 

しばらく私は茫然と突っ立っていた。

 

今までのことって、なんだったんだろう。幻だったのだろうか。

 

でも、確かに今日一日、拓哉君と言う子供は存在した。

 

そして今も私の手をしっかりつかんでいた感覚が残ってる。

 

・・・お茶も出せなくてごめんね・・・何を5歳児が・・・・。

 

このドアの向こう側で・・・たったひとりで何を思って、夜まですごすんだろう・・・。

 

ドアを叩いてみた。

 

応答はない。いるはずなのに。

 

帰るしかないんだろうか・・・そう思った時、向かいの棟の方から、

 

一人の主婦が出てきた。

 

その主婦は私を見つけると小走りで近寄ってきて

 

「あ・・あなた、民生委員さん?」と聞いた。

 

「いえ」

 

私が幼稚園の先生だと答えると、その女性は

 

「まあ、よく幼稚園に入れたものねえ。あの親は絶対入れないと思ってたわ。

 

じゃあ、せめて幼稚園に居る間は安心ね」

 

と、胸をなでおろす。

 

私がきょとんとしていると

 

「拓哉君ね。体に痣とか怪我なかった?」

 

そして更に

 

「あの子、こないだ、一度死にかかったのよ」

 

衝撃的な言葉を口にした。

 

 

 

先月のことだと言う。

 

親から育児放棄とも言える扱いを受けていた拓哉君は、4歳ころから今度は

 

ストレスのはけ口になり、夫婦喧嘩の後は決まって殴られていたらしい。

 

「そりゃあ派手な喧嘩が聞こえて来てね。うちのところとこれだけ離れて

 

いるのに、声が聞こえてくるのよ。一緒に拓哉君の悲鳴にも似た泣き声が

 

聞こえて来てね・・・。私たちも交代で何度も市役所に連絡したんだけど。

 

それがあの日」

 

いつもどおりに派手な夫婦げんかの後、拓哉君の泣き声も聞こえてきて、

 

その後しばらくして、扉が開いて、直後に救急車が来て、拓哉君は病院に

 

運ばれたのだそうだ。

 

「『拓哉が、転んで頭を打って動かない!』

 

母親は半狂乱になって叫んでいたけど、誰も本気になんてしてなかったね。

 

明らかに親がやったって言うのはみんなわかってたからね」

 

・・・・それから、民生委員の人が来たので捉まえて聴いてみたところ、

 

意識不明の重体になっているとのことだった。

 

殆ど助からないようだ・・・民生委員の人がそう言ってたのが・・・ある日見たら

 

車から降りて来た拓哉君がいた。

 

「奇跡的に助かったらしいって、民生委員の人も言いながら頭をひねってたね」

 

その主婦はちょっと言葉を切ると

 

「でもそれ以降も、夫婦げんかも虐待も続いているんだ。だけどダメだね。

 

やっぱり通報しても殆ど、児童施設の人も警察も本気で関わっては、

 

くれないんだ」

 

悔しそうに言った。

 

「死ななくちゃ動いてくれないんだ。せっかく助かった命だよ。今度は幸せに

 

なって欲しいんだけど・・・」

 

そう言うと、私の手を握り、拓哉君を守ってあげて欲しいと何度も言った。

 

「もちろん、私たちも様子は見ているけどね。見ている人間は多い方がいい」

 

私は言葉もなく頷くしかなかった。

 

ともかく何度も頷いて一緒に見る意思がある事を伝えた。

 

「・・じゃあ、私、買い物があるので・・・」

 

その主婦はもう一度頭を下げると小走りに立ち去った。

 

居るに居られないと言うのだろう。

 

それにしても・・・・死にかけたって・・・なんて言うことだろう。

 

5歳の子供だ、どんなに抵抗したって大人には敵うまい。

 

なすがままに殴られたり、投げつけられる拓哉君を想像して、私は思わず

 

身震いした。

 

どんなに痛かっただろう・・・ううん、痛いなんてもんじゃない、どんな気持ちで

 

耐えたんだろう。

 

櫻井家は誰もいないかのように、シーンと静まり返っていた。

 

電気も点けなきゃテレビを点けると言うこともないのか。

 

おもちゃがあるとも思えない。そんな中で数時間一人で過ごすなんて。

 

とは言えここで、立ちすくんでいても仕方ないか。私はもう一度

 

「拓哉君、何かあったら先生に言ってね。また明日会おうね」

 

と声をかけてみた。

 

でも、中から返事はしなかった。

 

さっき見た拓哉君は幻だったのか・・・そう思うほどだった。

 

後ろ髪をひかれる思いだったけれど、帰らなくては。

 

もう私には何もできないのだ。

 

ただ・・・何かあったら拓哉君が私を頼って欲しい、そう願った。

 

アパートを背にして、歩きだす。

 

心だけはこのアパートに残すような気持ちで、でもなぜか振り返られなかった。

 

私の家はここからならそんなに遠くない。急いで帰ろう。

 

その時、また、風が吹いた。

 

そして、・・・・美玖・・・・卓哉の声が聞こえた。

 

・・・卓哉・・・?!思わず振り返ったけど、誰もそこに居るはずがない。

 

でも何故か背中がすごく暖かかった。