皆さん,伝兵衛の東欧旅日記第2弾「ソビエト連邦最後の冬」如何でしたか?日記を日付順に辿っておられた方はお気づきだと思いますが,“ソ連邦の崩壊”が私の日記の中で取り上げられたのは,18日間の現地滞在のうち,最後の2日だけでした。
これは意図的にそうしたものではなく,連邦崩壊といったシナリオが現地でこのとき進んでいようとは,私の当時のロシア語の貧弱さのせいもあって,ほんとに直前まで分からなかったのです!
これは意図的にそうしたものではなく,連邦崩壊といったシナリオが現地でこのとき進んでいようとは,私の当時のロシア語の貧弱さのせいもあって,ほんとに直前まで分からなかったのです!
ここで少しウクライナのことについて述べたいと思います。当時ソ連邦崩壊を決定付けたのは,1991年12月1日(だったと思う)に行われた,ウクライナの連邦からの独立を問う国民投票でした。
この時公式な発表では,90%のウクライナ国民が独立賛成であったとされています。おそらく日本でもそう報道されていたと思います。
しかしながら,これには事後談があり,その5年後,つまり私がウクライナ留学中であった1996年
に地元で耳にした話によりますと,投票後に某民間調査機関が独自に聞き取りなどで調査したところによると,当時,首都キエフでは,何と52%(つまり過半数)が独立に反対票を入れていたらしいことが判明したというのです。そして,この傾向は当然のことながら,ロシアとの地理的,歴史的つながりの強いハリコフなど東部地域ではより顕著で,また南のクリミア半島などでは,更に独立反対の傾向が強かったであろうと推定されているのです。
この時公式な発表では,90%のウクライナ国民が独立賛成であったとされています。おそらく日本でもそう報道されていたと思います。
しかしながら,これには事後談があり,その5年後,つまり私がウクライナ留学中であった1996年
に地元で耳にした話によりますと,投票後に某民間調査機関が独自に聞き取りなどで調査したところによると,当時,首都キエフでは,何と52%(つまり過半数)が独立に反対票を入れていたらしいことが判明したというのです。そして,この傾向は当然のことながら,ロシアとの地理的,歴史的つながりの強いハリコフなど東部地域ではより顕著で,また南のクリミア半島などでは,更に独立反対の傾向が強かったであろうと推定されているのです。
ということは,リボフなど,独立志向の強かった西部地域の人々が100%賛成票を投じていたとしても,この地域の人口なども考えてみると,総合的に国民の90%が独立賛成といった結果が出ることは全く不可能になるというのです!
つまるところ,“90%の賛成大多数”とうのは,当時のウクライナ政府当局の謀略であったということになります。秘密投票である以上,政府はいくらでも都合のよい発表をすることができるわけです。私が留学中に習っていた,キエフ大学の政治学の先生は,「クリミアの住民は,ウクライナが独立したら,領土内の資源がロシアに安値で持っていかれたりせず,皆自分のものになるから,経済が好転するなどといった政府の宣伝に騙されて賛成投票しました。」
と言っていましたが,どちらにしても,政府が国民を欺いていたのは事実のようで,そんなことがあったからこそ,その政府はオレンジ革命で,打倒されるべくして打倒されたのだと言うことができます。
つまるところ,“90%の賛成大多数”とうのは,当時のウクライナ政府当局の謀略であったということになります。秘密投票である以上,政府はいくらでも都合のよい発表をすることができるわけです。私が留学中に習っていた,キエフ大学の政治学の先生は,「クリミアの住民は,ウクライナが独立したら,領土内の資源がロシアに安値で持っていかれたりせず,皆自分のものになるから,経済が好転するなどといった政府の宣伝に騙されて賛成投票しました。」
と言っていましたが,どちらにしても,政府が国民を欺いていたのは事実のようで,そんなことがあったからこそ,その政府はオレンジ革命で,打倒されるべくして打倒されたのだと言うことができます。
さて,いささか話がそれましたが,東欧旅日記,次のシリーズ第3弾は明後日よりスタートします。第3弾名付けて「迷走する東欧」,共産党1党独裁政権が倒れて,新しい政府,新しい政治・経済体制の下で将来へ向けて歩み出した東欧諸国の苦悩(主としてルーマニア)について,日々感じるままに旅の道中で綴った日記です。是非こちらもお楽しみいただければ幸いです。よろしくお願い申し上げます。