深谷線のその後

1889年4月に長浜~新橋間全通したが、7月に陸路で東海道線が陸路でつながっった。これにより、東海道線は大津~米原~深谷~関ヶ原となり、長浜~大津間の汽船連絡の廃止と長浜~深谷間の運転が休止され、6年間で幹線の役目は終わった。しかし、琵琶湖を使った輸送はまだ健在だったようで1891年には深谷~長浜間の貨物輸送がスタートした。しかし、1896年には貨物輸送も休止され、1899年には線路も撤去され完全に鉄道路線としての役目を終えた。

深谷線の廃止の理由

1、当初から敦賀~大津全路線陸路計画であったものを変更したから

2、西南戦争などによる国家財政の窮乏で暫定的に鉄道連絡船とされた

3、明治12年10月9日太政大臣から米原~敦賀間の建設命令が出た

4、汽車と鉄道の連絡には長浜の方が向いていたため

5、長浜市民から長浜~関ヶ原の民営鉄道として存続を嘆願しており、反対はしていない。

6、敦賀線の費用の流用によって当面長浜~関ヶ原を建設した。

7、長浜市民が鉄道の排煙その他を嫌い、鉄道の移設を嘆願したという話を聞いたが実際はそうではないらしい。

8、深谷付近の勾配がきつく輸送力増強に伴って問題となり、ルート変更を余儀なくされた

9、江戸時代の五街道である中山道も米原を通るように最短コースに変更された。