『新全集』の「別巻二」に井伏鱒二の詳細な「年譜」が載っていますが(担当は寺横武夫)、1951年11月の帰福についての記録はありません。もちろん、『自選全集』の「年譜」にも。

 

 ところが、「福山東高校新聞」昭和26年11月29日号の二面「人事往来」という記事に「井伏鱒二氏」という記事が掲載されています。そこには三人の講師の名前が出ています。1筒井密義氏(11月12日来校)2井伏鱒二氏 3丸山鶴吉氏(11月15日来校)と。

 

 井伏鱒二氏の記事を引用しておきます。

 ーここより引用ー

 「本日休診」「遙拝隊長」で読売文学賞を獲得、現代日本文学界に独特な地位を占めておられる井伏鱒二氏(本校前身誠之館中学卒業)は帰省中であったが本校の依頼により去る十三日来校、講堂において約一時間にわたり講演し、のち文芸部主催座談会に出席著作の苦心等有益な話をされた。(写真あり)

 ーここまで引用ー

 

 この時の全体の講演について、一年生であった一人がその会報で「刮目」と題して書いていますが、これはまったくの誤りということは既にこのブログで書きました。

 では、どうだったのか、私は二年生の一人として聴いていたのですが、はっきり記憶していません。ただ、次のようだったと勝手に思い出したことを書いておきます。

1 井伏氏は、「私は講演の内容を持っていないので、誰か質問があったらしてくれませんか」と述べられた。

2 講堂の二階にいた三年生の一人が「先生の学生時代の話をしてください」と大声でお願いした。

3 井伏氏は懐から本を出して四十分間読まれた。

 

 午後の文芸部との話し合いについては、当時三年生であった草地勉さんが「若鮎」(再刊号)に次のように書いておられ、午後の座談会は、(私も報道課の一員として参加)その通りだと思いました。

 

 ーここより引用ー

 作家・井伏鱒二さん(一九六六年、文化勲章)が、里帰り。校内の記念館で話した時には、文芸部員は同席を許された。

 この誠之館の大先輩(一九一七年卒)は、「ご講演を」との校長の依頼に、「畳に座ってでよければ」との条件付きで引き受けた。かの黒船のペルー提督ゆかりの大地球儀を背に、井伏さんは、若き日の短編「屋根の上のサワン」や太宰治のことを、飾らずに本音で話した。けだし、座談の名手だった。

 ーここまで引用ー

 

もう二点、井伏氏が話したことで、私が覚えていたことを書いておきます。

 1 今度の帰郷は、知人の墓参りであったこと

 2新聞記者とトラブルがあったこと

 

 これらの件について、今年出版された『井伏鱒二未公開書簡集ーある級友への手紙』がある程度答えてくれました。長くなりすぎたので、明日「つづき」を書きます。