私は、昭和30年頃、仙台の大学の国文科で学んでいました。友達に何人も「太宰教信者」がいました。太宰の生家の青森に出かけたとか、「桜桃忌」に行ってきたとか。卒論に「太宰」は認めないよと指導の教授が冗談交じりにカナしていたのを思い出します。そのころの太宰の個人全集です。

 

 筑摩書房『太宰治全集』1955(昭和30)年刊行、全12巻、別巻に「太宰治研究」。全12巻の完結は、昭和31年9月でした。

 その最後の「月報12」の「編集後記」には、次のようにあります。

 

 ーここより引用ー(月報12 「編集後記」より)

 昨年十月に第一巻をもって刊行を開始してから丁度一ヶ年、ここに『太宰治全集』全十二巻を完結し得るに至りました。その間、読者諸氏の強い御支持を受けつづけて、戦後数多出された個人全集のうちの第一等の好成績をもって完結し得ましたことは、私どもの喜びであるばかりでなく、読者諸氏にとっても大きな喜びであろうと思います。太宰治逝きて九年、その声価定まって、彼の文藝の姿を正しく突きとめようとする者が年々次第にその数を増していることを、私たちは明確に知らされ得たわけであります。地下の太宰さんも、さだめし会心の微笑を浮かべていることと思います。(以下略)

 ーここまで引用ー(私注ー文中旧漢字を新漢字にして引用しました)

 

 この全集の「月報」のほとんどの巻頭に、「井伏鱒二」は文章を寄せています。「井伏鱒二」の「太宰治」に対する思いが伝わるのですが、先日、井伏鱒二の『荻窪風土記』を読んでいて、次のような文を見つけました。紹介します。

 

 ーここより引用ー(『荻窪風土記』「小山清の孤独」より)

 戦争直後、私がまだ郷里に疎開中、小山君に関係したことで東京の中島健蔵が手紙をよこした。

 「三鷹下連雀の太宰の家は、戦争中から空家になってゐる筈だが、暫く俺たち夫婦に貸してくれないだらうか」といふ意味のことを言って来た。十二社の中島の家が空襲で焼けてしまったのだ。さっそく私は、津軽に疎開中の太宰に、中島君が宿借りをしたいと言ってゐると伝へた。太宰からの返事に「下連雀のあの家には、小山といふ文学青年が住んでゐるが中島先生が引越しておいでになれば小山の励みにもなるから大賛成である」といふ意味のことを言って来た。私はそれを手紙で中島に取次いだが、中島は中野方面に家が見つかったから、御放念を願ひたいと言って来た。もし中島が太宰の下連雀の家に来て、太宰がそこへ帰って来たとしたらどんなことになってゐたらうか。どこかで部屋数の多い家を借りて、暫く仲よく協調して住んだかもわからない。少なくとも自棄つぱちの女に水中へ引きずり込まれるやうなことはなかったらう。

 ーここまで引用ー(文中の促音「っ」はすべて「つ」で書かれていたのを勝手に「っ」にしています)

 

 長い引用、御免なさい。最後の太字について、井伏は「と思った」と書いていません。

 こんな、生の、井伏の感懐に驚き、また、井伏の太宰に対する気持ちの率直な現れかと心動かされました。