僕、高谷光樹は幼なじみの成美莉音と、近くに出来たメイド喫茶に行くために、日曜の朝家を出た。オタクだけどいかにもオタクとは思われたくなかったから、黒のハットにインナーのTシャツも黒にして、ドット柄の白シャツを羽織った。濃紺のデニムパンツに白のスニーカーで、九月の晴れた日差しには、少し熱かった。
 歩いていると背中に気配を感じた。振り返ると明らかに電信柱からはみ出る見覚えあるリボン。高梨優衣里だ。優衣里は僕のことが好きだ。学校にファンクラブが出来るほどの美少女だけど、僕には好きな人がいるから、正直迷惑なんだよなぁ。前を向いて走り出そうとした瞬間、小さな手が僕の目を覆った。
「だ~れだ?」
「優衣里だろ?」
 優衣里の手を払って振り返って確認すると、予想通りの顔があった。胸まで伸ばしたサラサラの髪は、風になびいてシャンプーの良い香りがした。ピンクのワンピースがよく似合ってる。僕を見つめる瞳はまるで、萌えキャラのようにキラキラで、男ならこの目で見つめられただけで、ドキドキしちゃう。中学生と思わせる小ささは、小動物のような可愛らしさだった。
 僕だって男だ。こんなに可愛い娘に好かれるのは嫌じゃない。好きな人がいなければ。さらにいうと普通に好かれるなら。
「先輩。おはようのチューをしましょ」
「家の前でキスなんて出来るか!」
「あ、光樹がまた女をはべらせてる」
 近所の小学生大山浩太が、僕をからかってきた。またって言ってるけど、優衣里が僕から離れないだけ。
「そうなのよ。あたし達は今からデートをするの」
「光樹に彼女がいたんだ。物好きがいて良かったな」
「待て! 優衣里は彼女じゃなくて、ストーカーだから!」
「そんな! それじゃあ今からチュ-するって言ったのは、嘘なんですか?」
「言ったのは優衣里だろ」
「酷い。こうなったら力づくで唇を奪っちゃいます」
 これがいつもの流れだ。優衣里が強引にキスをしようとして僕が逃げる。会うたびにこの流れで鬼ごっこをする。走り出した僕に対して、運動神経の良い優衣里は、どんどん追いついてくる。中学のときは、陸上で短距離をしていたらしく、県大会に出て準優勝までいったらしい。
「香坂桐子モード」
 優衣里は妹ゲーが好きな残念なキャラクターのカードを見て、ニヤニヤした。一時的に距離は出来たけど、優衣里が本気になった。優衣里はキャラクターチェンジをした。アニメなどのカードを出して、しばらくニヤつくことで、優衣里のオタクマインドがそのキャラクターになりきる。香坂桐子は妹なのに妹ゲーが好きっていうキャラクターで、陸上部でインターハイに出るくらいの脚の速さを持っている。元々脚が速いのにキャラクターチェンジをやられたら、必死に走ってても年下の女の子にすぐに追いつかれた。手を掴まれて振り返ると、汚物を見るような目で僕を睨んでた。
「何見てんのよ。キモッ!」
 お前が好きで追い掛けてたんだろうが! 僕を捕まえようとしてるのも、キスのためだっただろ。今の優衣里には常識的な考えは伝わらないんだけど。
 このままじゃいつまでたっても、待ち合わせ場所に着かないと思った僕は、目的地を待ち合わせ場所から、アニメイコに変えた。ここからならすぐだ。優衣里の手を振り払い、歩道からガードレールを右手で押さえて飛び越えた。車道を一瞬出来た道を駆け抜ける。横断歩道じゃないところを渡って、車が通ってたから怖かった。でもこれで少しは時間が稼げたと思う。後ろから優衣里の声が聞こえた。
「とうっ!」
 目の前を通るトラックの上に着地して、さらにバスの上に飛び移り、最後に膝を抱えて何回転もしながら、僕の前まできて両腕を広げて見事な着地をきめた。まるで体操選手のようだった。
「桐子はそこまでの運動神経はないよ!」
「使う状況がないだけよ!」
 これがキャラクターチェンジの恐ろしさ。優衣里自身じゃ出来なくても、そのキャラクターが出来ると思い込んでることなら出来る。出来るじゃなくて、出来ると思い込んでるのがすごい。
 優衣里の目が好き好きアピールの、可愛い目になった。さっきの汚物を見るような目はかなり辛かった。元に戻った証拠にこのセリフをまた聞いた。
「先輩チューしましょう」
「だが断る」
 優衣里が先輩と言った頃には、脱兎のごとく駆け出し、チューって言葉は背中で聞こえた。もうすぐアニメイコだ。僕はアニメイコに入ると、漫画売り場に行った。すぐに優衣里が追いついてきたけど、僕はここまで来たら何とかなると思った。
「ねぇ優衣里。この漫画知ってる?」
「何ですか?」
 僕を追い掛けてきたけど全く息を切らしていない優衣里は、顔を近づけすぎで、僕とほっぺがくっついた。
「『俺には親友がいない』って漫画なんだけど、面白いんだよ」
「どこがですか?」
「ギャルゲーやったり、ロボットBLが出てくるところ」
「想像できないけど、先輩がオススメするなら読んでみますね」
 優衣里は僕に勧められた漫画を断らない。優衣里から逃げるにはこの方法が一番。何度やってもこの方法が効くのは、読まなかったときに僕がこう言ったから。
「僕の好きな漫画を読んでくれないなら、僕のことそんなに好きじゃないってこと?」
 冗談で言ったんだけど、慌てて読んでそれからは絶対に読むようになった。さらに優衣里は漫画を読みだすと、最後まで読まなきゃ気が済まないタイプで、僕が優衣里から離れても全く気が付かない。
 僕が莉音との待ち合わせ場所に向かっていると、走ってくる竹刀を持った男がいた。
「必殺怒り斬り」
「竹刀じゃ斬れないだろ!」
 僕を襲ってきたのは波川祐介。剣道部で竹刀を持ち歩く物騒なクラスメイト。僕が優衣里と話すときまって攻撃をしてくる。振り下ろされた竹刀を、下がってかわした。
「ここで会ったが百年目。お前の命頂戴する」
 竹刀の先は僕の目に真っ直ぐ向かっている。
「クラスメイトだから毎日会ってるじゃん!」
「問答無用!」
 竹刀を持った剣道部の人間と、帰宅部がまともに戦って勝てるわけがない。こうなったら奥の手だ。
「あ、ユーフォーだ」
 右手の人差し指を空に向けた。
「隙アリ!」
 頭に竹刀があたった。両手を頭に持っていさする。
「いってー。ここは空を見て探すのが、お約束だろ!」
「ここはが死ぬのがお約束だろ」
「そんなお約束受け容れられるか!」
 お約束作戦は常識のない人間には通じないみたいだ。だったらこうするしかない!」
「あ、空飛ぶブタだ」
 こんな珍しいものなら空に目がいくはず。
「隙アリ」
 頬を叩かれた。痛みが歯まで響いた。
「いってー。何で空を見ないんだよ?」
「拙者はお前の隙を探しているからでござる」
「何でござるって言ってんだよ。いつもそんな口調じゃねえだろ」
 波川に通じるようにするにはどうすればいいか。良いアイデアが浮かんだ。
「あ、空飛ぶ優衣里だ」
「何!」
「今だ!」
 僕はすぐに走り出して近くにあったお店に入って、エレベーターで四階まで行って、撒いたのを確認した。

     ☆

 僕は約束の時間に駅前に何とか辿り着いた。すでに莉音が待ってた。その目はいつもの優しげな目ではなく、僕を心配する雰囲気に満ちていた。叩かれた頬を抑えながら走っていたし、赤くなっているのかもしれない。
「光樹大丈夫?」
 僕を見付けると、莉音は僕の頬を見て駆け寄ってきた。
「ほっぺが真っ赤になってるよ」
「うん」
 心配そうに波川に叩かれた頬を優しくなでてくれた。幼なじみとはいえ、頬を撫でられるとドキドキしてきた。痛みが強くなってきたけど、まるで薬を塗ったように、痛みがひいた気がした。
「ありがとう。まぁいろいろあってね。それよりも今日はオシャレだね」
 僕は莉音の手を頬から離して、莉音を改めて見ると、かなりオシャレをしていることに気付いた。セミロングの髪はいつもと違って、フワッとした髪で、自然な立体感が生まれている。しかも白いシフォンブラウスは、胸元にピンクのリボンがあり、女の子らしさをアピールしている。その下には黒のミニスカートで、莉音の細い長い脚を魅力的に見せている。足下のサンダルは涼しさを感じさせ、上手いコーディネートだと思う。
 みんなで遊びに行くことはよくあるけど、いつもより可愛い服を着て、ヘアスタイルにもこだわっているのはわかる。きっとメイド喫茶に行くから、莉音なりのオシャレをしたくなったんだと思う。
「まぁね。気付いてくれてありがとう」
 気付かないとご機嫌斜めになるから、莉音に会うとまず髪型やその日の服をチェックする。おかげでクラスメイトの女子に、何気なくそれ可愛いねと言っちゃうことがある。変に思われてないか心配だ。
「また優衣里に付きまとわれたの?」
「何でわかるの?」
 思わず目を見開いて驚きの声を上げた。
「わかるに決まってるでしょ。その頬は優衣里から逃げた後に、波川君にやられたんでしょ。いい加減に隠すのやめなよ」
「わかってたのかよ」
「わかんないわけないでしょ」
 前から波川にやられてたけど、格好悪くて言えなかった。波川にやられた直後だし、莉音も言わないわけにはいかなかったんだと思う。
「こんなことが続くんなら、優衣里を早くふっちゃいなよ」
「意外だな。人の恋愛は応援する莉音が、そんなこと言うなんて」
 莉音は恋バナが好きで、誰かが恋をしてると聞くと、すぐにハイテンションになって応援する性格だから。
「光樹って本当に鈍感ね」
「僕のどこが鈍感だって言うんだよ」
「そういうところよ」
「僕だって莉音が、僕に特別優しいことに気付いてるよ。幼なじみは特別だろ」
「気付いてたんだ。でも答えが違う」
 マジか。ここを深掘りすると失敗しそうだ。話題を変えよう。
「今日の服は僕初めて見るのだね。似合ってて可愛いよ」
 怒っていた表情が和らぎ、少し嬉しそうな顔になった。鋭さのなくなった目で、僕を真っ直ぐに見つめて尋ねた。
「何でオシャレしてるかわかる?」
「当たり前だよ。今からメイド喫茶に行くからだろ。メイドさんはきっと可愛いから、莉音もオシャレをしようってことだろ」
「違う」
「じゅわん」
 グーパンが鼻に命中して、変な声が出ちゃったよ。優しいはずなのに、莉音は変なタイミングで怒った。鼻にツーンとする感覚の後に、ポタと血が垂れた。僕は鼻血を垂らして、すぐに上を向いた。
 莉音は口元に手をやってビックリした。
 よりによって女の子の前で鼻血を出すなんて最悪だ。