9月14日 金曜日

 

 今日は同じアンティグアでも日本人経営のペンション田代に泊まる。日本人バックパッカーの溜まり場のようになっているペンションである。ロサンゼルス在住の2人の日本人学生バックパッカーと知り合う。うち1人はロサンゼルスからブラジルまで陸路で半年かけて向かうというのに、準備した金はたった600ドル、途中でストリートミュージシャンやりながら稼ぎ、自炊しながら旅をするというスジ金入りのバックパッカー。まさにキリギリス人生、自分もキリギリス人生だから人のことは言えないが。

  夜は地元の集会に出席するが、エルサルバドルほどの歓迎でもなかった。エルサルバドルはまず外国人は行かないが、アンティグアはまだ外国人に慣れていて新鮮味がないのかも。またエルサルバドルでは野外にも参加するなどゆっくり交わったのに対して、アンティグアでは翌日 首都のグアテマラシティに戻るのもあって集会一回こっきりの交わりであったのも関係しているかもしれない。お食事のお誘いもなし。

 

9月15日 土曜日

 

  午前中 お土産を買い、11時頃 グアテマラシティ行きのチキンバスに乗り込む。首都のソナ7で降りて、そのままタクシーで従兄弟の家に向かう。それからちょっとゆっくりした後、またタクシーで、レストランに行きそこで食事をした。

  最近 中学校の学年同窓会のお誘いがあった。誘ってくれたのは慶應大学で准教授をしている出世頭のw氏。詳しいことは知らないが、傍目から見るに順風満帆のエリート人生。将来も老後も安泰と誰もが思うであろう。イソップ寓話のアリとキリギリスの童話は勤勉に働いて冬のような将来に備えるような生き方を教えている。まさに高度経済成長期の日本人に受け入れられる生き方であった。年功序列制、終身雇用は高度経済成長の産物である。

  バイトか自営しかしたことなく、年中、旅行や奉仕をしている我が人生は、蟻のように将来のため経済的な意味で勤勉に働く人たちと対極をなす生き方である。コツコツ真面目に悠々自適の老後なんて全く考えていない。なるようにしかならないし、コツコツ経済的に安定しようとしても、昨今の経済危機や自然災害はいとも簡単にそれらの安定を土台から揺さぶってくる。それなら神の御意思に従って、思うままの人生を送る方がずっといい。結果的に奉仕中心の人生で老後無一文になろうが、それを受け入れる覚悟もしている。神の御意思の範囲内でというよりそれに従って自己実現せずして何の人生かと思う。もちろんW氏のような真面目な経済的な意味で勤勉な人生を批判しているわけでもない、価値観が違うだけの話である。でも多くの人は、老後の安泰とやらのために我慢の人生を強いられていると思う。多くの人は自覚さえしていないだろうが。

  後で自分が47歳の時にどんな事を考えていたのか振り返れるよう せっかくなので掘り下げて考えておく。エホバと悪魔サタンとの違いは何か、エホバはなぜ宇宙主権者なのか、それは御使いでも人でも心からエホバを喜ばせたいという動機でご自分に仕えるものを有する事である。それとは反対にサタンは人をコントロールしようとする、人を型にはめ込み、サタンの意思にそれと分からずに従わせようとする。例えばの話、タバコ一つとっても人は最初はちょっと仲間に受け入れてもらいたい、カッコいいと思われたいという動機で吸い始める。仲間の圧力もあるかもしれない。自分が心からそうしたいというよりこの世の型にはめ込まれて吸い始める。彼らはタバコを吸える自由を謳歌してるというかもしれない。でも実際それがないとやっていけないとしたらもはや奴隷である。タバコなしにやっていけず、タバコのためには、多額の費用も厭わないとしたら、ある意味タバコの前でひれ伏しているに等しく、奴隷状態である。お金そのものもそう、世間の多くの人はお金の前にはひれ伏す。まさにひれ伏す対象それが神であり神に対し奴隷状態となる。

  それに対しエホバに仕える人は、開拓にせよ建設奉仕にせよ心からそうしたいと望むからそうする、人の栄光を求める人もいるかもしれないが、エホバはそれを望まれない。正しい動機で奉仕しないといずれ心の中の秘められた人は明らかになる。エホバは快く自分を与える人を愛される。もちろん奉仕に気乗りしない事もある。それにもかかわらず奉仕に出かけるのはイヤイヤながらとなり、エホバは喜ばれないのか。それは、全く違う。パウロは自分の身体を打ちたたき奴隷として引いていく、と述べた。もし気乗りしないなら奉仕しないとすると、自分の欲望や感情を優先することになる。つまり自分の肉的な欲求の奴隷になり、動物的な生き方となる。エホバの奴隷になるということは自分の肉の欲望や感情を犠牲にするということ、エホバの御意思を最優先させるという事、であるからイヤでイヤで仕方がないという事ではなく、自分を喜ばせたいという欲求にブレーキをかけ、安楽な暮らしがしたいという思いを振り払いながらエホバにお仕えするのは正しい生き方である。傍目にはそれは洗脳と写ることがあるかもしれないが、実際 人は神によって常に思いを作り直していただき、正しい生き方を教えてもらう必要がある。常にそうしていないと、肉の欲望に従って生きてしまう。「洗脳」については以下の経験がある。

 

翌日その兄弟たちは,さらに尋問を受けるため,そこの主要な町へ連れて行かれました。歩きながら護衛の者たちは,兄弟たちが洗脳されたのだと言いました。それに対して兄弟たちはこう言いました。「そうです,確かに洗脳されてしまったんです。もうだれをも傷つけるようなことはしませんし,盗んだり,酔っぱらったり,姦淫を行なったりしません」。町の係官は,兄弟たちの言い分を聞くと,「だれもがあなた方のようであれば,事態は変わってくるでしょう。……願わくは,あなた方の神エホバがあなた方を保護してくださいますように」と言って,二人をいたわり,祝しました。それから二人は釈放されました。

<わたしたちの家族も友人も,またわたしの犯罪者仲間も,わたしたち夫婦がエホバの証人と聖書研究をしていることを快く思いませんでした。『お前は洗脳されている』と言う人たちもいました。しかし正直なところ,わたしは脳を洗い清めてもらう必要がありました。多くの人格上の欠陥を抱え,良心がやけどの痕のように無感覚になっており,様々な悪癖があっただけでなく,たばこを1日に60本も吸っていたからです。聖書について学ぶよう助けてくれた証人たちや,地元の会衆の人たちは,たいへん辛抱強くて親切でした。それで,わたしはやがて数々の悪い習慣から解放されました。―コリント第二 7:1。p> 

 

そうである。「洗脳」の定義はいろいろであるが、人はどうしようもない存在であるから神によって、「洗脳」していただかないと、まともな人間になれない。