新社会人になった頃、のどかは

「本音と建前」

という言葉があまり好きではなかった。



本音は正直な気持ち、建前は嘘。

そんなふうに思っていたからだ。


子どもの頃から、正直でいることは良いことだと教わってきた。



だから大人たちが、「それは建前だから」

と言うたびに、どこかモヤモヤした。


本当のことを言わないなら、それは嘘なのではないか。

なぜ遠回しな言い方をするのだろう。



なぜ思ったことを

そのまま言わないのだろう。



社会人になったばかりののどかには、

その感覚がよく分からなかった。



けれど、仕事を始めてみると

世の中は思ったより複雑だった。



職場には色々な人がいる。



優しい人もいれば厳しい人もいる。



本音をズバズバ言う人もいれば、いつも笑顔なのに何を考えているのか分からない人もいる。



そして気づけば、自分自身も学生時代とは少し違う言葉を使うようになっていた。



本当は疲れているのに、

    「大丈夫です」と言う。





本当は納得していないのに、「分かりました」と言う。


本当は少し悲しいのに、「気にしてません」と言う。


それは嘘をついているつもりではなかった。


でも、本音とも少し違う。


その違和感が、

少しずつ心に溜まっていった。



ある日、仕事帰りに神社へ立ち寄った。


社会人になった頃、なぜか導かれるように挨拶へ行った神社だ。



東京の真ん中にありながら、豊かな緑に囲まれた場所。



『東京のへそ』そう呼ばれている神社だった。


境内へ足を踏み入れると、不思議と空気が変わる。

街の喧騒が遠ざかり、木々の葉が風に揺れる音だけが耳に入ってくる。



のどかは手を洗い、ゆっくりと拝殿へ向かった。

特に何かお願いがあったわけじゃない。



叶えてほしい願いもなかった。



ただ、なんとなくモヤモヤしていた。



社会って何だろう…大人になるって何だろう…


そんな答えのない問いが、心のどこかに引っかかっていた。



お参りをして、手を合わせる。



そしてふと心の中で聞いてみた。



「神様、なんで大人って本音を言わないの?」



すると。



不思議とこんな言葉が浮かんできた。



『のどかよ。

 お前は建前を嘘だと思っているのか?』



「違うの?」思わず聞き返した。


神様は少し笑ったような気がした。



『では聞こう。もし思ったことを

全て口にしたら、人は共に生きていけると思うか?』



のどかは答えられなかった。



たしかに…思ったことを全部言えば正直かもしれない。


でも、それだけでうまくいくだろうか。



神様は続けた。



『例えば友人が髪を切ったとする。』



『その髪型が似合わないと思った時、お前はどうする?』



「うーん……」



『似合わないと言うか?』



「たぶん言わない」



『なぜだ?』



「傷つくかもしれないから」



『そうだ。』



『人は正しさだけで生きているわけではない。』



『人は思いやりと共に生きている。』



境内を風が吹き抜けた…木の葉が揺れる。


神様の言葉は続いた。



『建前とは、相手を騙すためだけにあるものではない。時に人を守り、時に自分を守り、人と人の間に橋をかけるために生まれたものだ。』



その言葉を聞いた瞬間、のどかは少しだけ考え込んだ。



建前は悪いものだと思っていた。



でも本当にそうだろうか。



誰かを傷つけないための言葉。



相手への配慮、場を穏やかに保つ知恵。



それもまた建前なのかもしれない。




神様は続ける。



『昔の日本人は村の中で生きていた。人間関係を壊せば、生活そのものが成り立たなくなることもあった。』


『田植えも収穫も祭りも助け合いだ。

誰かと対立すれば生きることさえ難しかった。だから人は言葉を選び、空気を読み、波風を立てない術を身につけた。

それが長い年月をかけて、日本人の中に受け継がれてきたのだろう。』



なるほど、、そう考えると、建前は単なる嘘ではない。人が一緒に生きていくための知恵だったのかもしれない。


のどかは少し納得した。




けれど、まだ気になることがあった。

だからもう一つ尋ねた。


「じゃあ、ずっと建前で生きればいいの?」



すると神様は少し間を置いて答えた。



『それも違う。』



風が止まった、静かな空気が流れる。


『建前ばかりで生きていると、今度は自分が見えなくなる。』



その言葉は、まっすぐ胸に入ってきた。



『誰かに合わせる、誰かを優先する、誰かを傷つけないようにする…それ自体は悪いことではない。』

だが、そればかり続けていると、自分が分からなくなる。』


のどかは思わず黙り込んだ。

思い当たることがあった。



社会人になってから、「こうしたい」

より、

「こうした方がいい」を優先することが増えた。



本当は休みたい。

本当は断りたい。

本当は挑戦したい。


でも、迷惑をかけないように、期待に応えるように、空気を壊さないように…

そんなことばかり考えていた。


気づけば、自分の本音を後回しにしていた。


神様は優しく言った。



『本音とは、わがままではない。自分自身の声だ。』


『好きなもの、嫌いなもの、やりたいこと、やりたくないこと、悲しい、嬉しい、

苦しい、楽しい…それを知ることだ。』



のどかは静かに頷いた。



そうか…本音を持つことと、好き勝手に生きることは違うんだ。


本音は、自分を知るためのものなんだ。



だから最後に聞いてみた。



「じゃあ、どうしたらいいの?」



神様はあっさり答えた。



『両方持っていればいい。』



「え?」



『人と関わる時は建前も使う。』



『だが、自分の本音までは手放さない。』



『口に出さなくてもいい、ノートに書いてもいい、ひとりで思うだけでもいい、神社で話してもいい。でも、自分の気持ちだけは見失うな。』



その瞬間、胸の奥で何かがほどけた気がした。


本音か建前か。


どちらが正しいかじゃない。



大切なのは、建前を使いながらも自分の本音を知っていること。




自分の気持ちに嘘をつかないこと。



それが大事なのだ。



神社を出る頃には、モヤモヤが少し晴れていた。



夕暮れの光が境内を照らしている。



木々の間から見える空は、来た時よりも明るく見えた。



帰り際、神様が最後にひと言、つぶやいた気がした。


『のどか、空気は読んでもいい。

 でも、自分の心まで空気にするなよ。』


思わず笑ってしまった。

少しだけ厳しくて、でも優しい言葉だった。


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