豊田英二氏の功績を備忘する | 村山涼一のマーケティング備忘録

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戦後すぐからトヨタの経営を担い、世界ではほぼ無名の存在だった同社が、名だたるグローバル企業に飛躍する礎を築いた功績は大きい。


英二氏の足跡を端的に映すのは数字。今のトヨタの前身であるトヨタ自動車工業の社長に就任した1967年に83万台だった年間生産台数が、会長になった82年には328万台、名誉会長に就任して経営の一線から退いた92年には470万台に達した。四半世紀に及ぶ社長、会長在任期間に、会社の規模を6倍に引き上げた。


逆境をチャンスに変えるたくましさ。60年代以降に資本自由化が加速し、巨大外資の攻勢にだれもが身構えるなかで、英二氏は70年の年頭のあいさつで「総力を結集して自由化に対処し、国際競争に勝利を収める覚悟」と表明し、事実それを実現した。


排ガス公害が深刻化し、英二氏も国会に呼ばれ、責め立てられた。当時を振り返って「まるで魔女狩りのよう」と率直な感想も漏らしているが、この時の批判が一つの契機になり、環境技術の開発に弾みがついた。


米国生産をめぐる決断。トヨタはもともと「三河モンロー主義」と呼ばれ、海外はおろか愛知県外での生産にも消極的だった。だが、80年代初めに日米自動車摩擦が火を噴き、米国現地生産が緊急の課題に浮上すると、英二氏の主導で最大の競争相手である米ゼネラル・モーターズとの合弁会社設立を決め、グローバル生産拡大への足場をつくった。


発明王で知られる豊田佐吉氏のおいにあたる。東京帝大工学部を出て37年にトヨタ自動車工業(現トヨタ)に入社。50年代初めに銀行管理下に入った際は常務だった。「何が悔しかったかといえば投資をさせてもらえなかったことだ」。後にこう振り返っている。


「自分の城は自分で守れ」。61年まで社長だった石田退三氏からこう薫陶を受け財務強化を徹底した。2兆円の現金を常に持ち続けるのは「経営危機が来ても4年は持ちこたえるため」だった。


カイゼン、カンバン、現地現物。よく耳にする用語はトヨタ生産方式を体系化した大野耐一氏(トヨタ自工元副社長)が考案。だが実践し浸透させたのは英二氏だ。漫然と仕事をするのでなく、社員一人一人が経営者のように考え、効率的な生産現場を実現する、との哲学だ。


会長になって腐心したのがグローバル化だった。お忍びで渡米し、握手を交わしたGMからは多くを学んだが、GMは2009年に経営破綻した。世界一になったトヨタは今年にも前人未到の世界販売1千万台を達成する。


(以上、9/18日経朝刊を抜粋)