日経新聞 YAZAWA 60 10/24 vol.4 | 矢沢永吉激論ブログ

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 欧米、中でも米国は矢沢の半生を通して、運命的な響きを持つ国となった。

「ロックったら元々海の外の音楽ですからね。僕らロックやってる連中の心の奥底にあるものったら、みんなビートルズ、ストーンズ。あこがれですよ」


 29歳の闇。YAZAWAの清算という主題の中に彼はいる。西海岸へ飛んだ。


「そういう気持ちがベーシックになって行ってるわけですから、ロサンゼルスの社会ってものに入ってくんですよ」。


異国でただの人になる方策を探した。


「ガラの悪いエリアにアパート借りるわけですよ。ヤバいよねって言われるとこに借りるんだよね」。


身を潜める舞台装置なのであろう。


「わざとアメ車の3000ドルの中古車買うのよ。なんでかって言ったら、そう新車を買いたくなかった」


 時を同じくして、彼の鼻面に新種のニンジンをぶら下げてきた日本のレコード会社がある。世界進出。


萎(な)えていた野望が鋭く反応した。80年、ワーナー・パイオニアに移籍。英語学校に通い、発音を砥石で磨くようにした。


 全曲英語のアルバム「YAZAWA」はドゥービー・ブラザーズが後ろを固め「全世界発売」と相成る。が、売れなかった。何と肝心の米国に宣伝部隊か存在しなかったのである。


「茶番だったってことが、後に分かるわけですよ」


矢沢は米国のレコード会社とも専属契約を結んでいたが、契約の文言「distribution」にからくりがあった。


米国の会社は商品配給の窓口にすぎなかった。発売元はあくまで日本の会社であり、要は米国側には売る義務も責任もない。


 海外進出は『夢』でもあり「欲第」「意地」でもあると彼はひとつ話に語る。


 「(移籍の切り札として)僕の夢をお土産にくっつけてきたわけですよ。乗っけられて。知らぬはYAZAWAだけだから。音楽、音楽で行ってる時よ。純粋な気持ちだ。大人たちは裏で会話をしてるわけだ」


全米発売のアルバムは計3枚。結果は出ない。夢が憂色に染まった。ふざけんなよ。大人とは手を切った。夢の頓挫であろう。88年の東芝EMI移籍を、矢沢は「仕切り直し」と述懐する。


「(会社)移って言うんですよ。俺もう一回、一からやるから力貸してくれって」。


矢沢39歳。アルバム「共犯者」の売り込みで地方のラジオ局まで回った。「またドーンと(人気が)あがっちゃうんです」