フリーウエイの10号でサンタモニカに行けるのだがその途中にソーテルという日本人街がある。

そこの焼き鳥屋とか洋食店とかで働いた。


アメリカはチップ制度なのでチップの取り分を巡る従業員間の取り決めがあった。

あの当時、時給5ドル25セントだったかな、それにチップが1日10ドルくらいあったかな。


あと、配達の仕事をした。 あの当時、リトル東京にLIGHT HOUSEという日本人向けの雑誌があり、そこの求人広告で見つけた。 一旗会という変な組織を立ち上げようとしてた50代の男の人が中心になってやってた組織だった。  仕事は弁当の配達で午後1時には終わってた。 午前中に日本人の会社に弁当を売りに行く仕事だった。  車は自分の車を使わねばならなかった。  1日に25ドルから40ドルになったと思う。


その日の売上をマクドナルドで計算してた。

これからアメリカで何をしたいかみたいな夢を語り合ってたな。



米国留学記

1999年7月に初めてアメリカのワシントン州のシアトルに留学した。 夜の10時になって、やっと日が暮れるような緯度の高い土地だった。


ホームステイした。450ドルだった。2食付だった。

ホームステイ先はある一般家庭だった。 どんな家庭かというと、だんなが飲酒運転でつかまり刑務所へ。 だんなは大工。子供は4人いたな。  I am hungly. I want to get a breakfast. みたいな 日常会話的レベルの英語を習慣的に身につきかけてた。  ある夕方、俺はそこのホストマザーと喧嘩した。 ホストマザーがなかなか夕食を作ってくれず、そのまま外出したので、俺は冷蔵庫の食べ物を勝手に使い自炊したからだ。


俺はハイラインコミュニティカレッジに留学したのだが授業料が馬鹿高く、1ヶ月で700ドルくらいしたと思う。

8月の末にはやめて、ロスに移転することにした。なぜなら、ロスのローズミードランゲージスクールの授業料が、馬鹿安く、1年で1100ドルとかだったからだ。


ロスへは、アムトラックという電車で行った。 電車の中である日本人の女と知り合い、後の1ヶ月ほど、行動を共にした。  ハリウッドのユースホステルにて泊まる。 チャイニーズシアターに近い所だった。


ローズミードに入学手続きを済ませ、リトル東京の4thストリートに部屋を借りた。 安い部屋で1ヶ月250ドルくらいだったかな。  


車がないと話しにならない土地柄だったのでヤオハンの日本人用掲示板で車の売買の広告を見て、日本人留学生から2000ドルか3000ドルくらいの値段で手に入れた。


DMVに行き、免許申請した。 たったの12ドルで取れた。 学科試験は4パターンくらいしかなく誰でも受かるような問題ばかりだった。 しかも日本語版で受けれた。  実地試験は試験官が隣に乗り英語でやりとりした。

申請用紙に、Japanese drivers licence 有りと書いてもらってたので、試験はわりとスムースにいった。

俺は日本の運転免許の卒業検定みたいな神経質な教官を予想し、右後ろ、左後ろの確認をかなりのオーバーアクションでやったら、shoulder, look up over the shoulder みたいなことを書かれたが合格した。


本当に合格したのかわからなかったので、係りの人に、Is it all? と言ったら、That's all !! と言われたので、アメリカの運転免許はなんとあっけないものかと思った。 しかし、その当時のカリフォルニア州は外人には即時交付ではなかったので仮合格証をもらい免許証が郵送されるまでそれで運転してた。