自己肯定感とは何か
2ヶ月ほど前まで自己肯定感が極端に低かった。
理由としては、自分を極端に下げる習性が身についていたからだ。
例として受験が挙げられる。「あいつはあんなにいい成績を取ってる」「あいつはあの難しい模試で1番を取った」
『それに比べて俺は...』
この自分を下げるやり方で自分は合格を勝ち取った。
ところで高校の時の自分は結果が全てだと考えていたため、「終わりよければすべてよし」
受験は終わりだと思っていた。塾や先輩、学校で「志望校合格はスタートに過ぎない」と何度も言われ、自分でもそれは理解はしていたのだが、心の底からの納得はしていなかったのだろう。
大学に入って結果が全てでないと気付くのには2年を要した。正確には入学直後からそれを体感してはいたのだが言語化して認知できるようになったのがつい数ヶ月前である。
なぜあれほど頑張ったのにこんなに悩んでいるのか。結果が全てではなかったのか。
そこで初めて「合格はスタート」なのだと心の底から理解する。人生は死ぬまで続く。その人生はチャプターごとに区切られているのかと言われればそうではない。マンガの第2章みたいに主人公が変わるわけでもない。自分という存在が自然と突然変容することもない。
続いている人生の中にゴールを見つけてどうするのか。100m選手はゴールラインを切るまで全力を尽くすが、その後も全力で走る選手などいない。人生はそうはいかないのだ。終わりは始まり。
だからこそ常に成長し続ける必要がある。
話は戻り、ではその成長を半永久的に続けるには私に取っては「自分下げ」は向かなかったようである。自己肯定感を下げることは1人時間が格段に多くなった大学生の私に鬱と自己嫌悪、そして私が最も避けていた「周囲を傷つけること」にもつながった。これを変えなくてはならない。
では、どうすればいいのか。
答えは身近にあった。意外と難しく見える人生の問いは身近なところに潜んでいるものだと思う。
「あいつはあんなにいい成績を取ってる」「あいつはあの難しい模試で1番を取った」
『あれを当たり前にしよう』
自分下げではなく、当たり前の基準を上げることが私にとっての最適解だったように思える。
他者と比較しないわけではない。ただ、変えたところは自己評価の点である。
自分を過小評価し、ひたすら下げることで劣等感をパワーにしてきたこれまでに対し、今は相手はもちろん自分を‘正当に’評価し、自分の中の当たり前の基準を上げる。
当たり前の基準を高めれば当たり前にすることも増える。「授業に出席するのは当たり前」「洗濯物を溜めないのは当たり前」「部活の練習の意味を考えるのは当たり前」「連絡を速やかに取るのは当たり前」
当たり前 でありながらも 当たり前 をこなした数だけ自信につながる。
今、かつて失った自信はコツコツと当たり前を積み重ねることで戻る、正確には新しく生み出されてきている。
これが自己肯定感につながっていくものと考えた。
「ドパガキ論」と「音楽論」は述べたい。
「睡眠論」も考えている。
さようなら。