まずはおわびから。
前回のブログでの最後の段落での表現は適切ではありませんでした。
問題となった段落とは以下のとおりです。

>フロリーさんは男性はこうした男性性を見習ってみては、と指摘していましたが、男性がこうした男性性を表現するためには、逆にさまざまなものを贅肉を始め多くのものを「削る」必要があると思いました(笑)頭蓋骨とかも削れないしなぁ(苦笑)。

まず最初の「フロリーさんは・・・見習ってみては」という部分。ここは正確ではありません。男性性のモデルとして宝塚を観ることを勧めてくれただけです。
後半の「男性がこうした男性性を・・・」の部分もまた乱暴で不適切な言い方でした。
ただ・・・なんです。ここの部分にじつはぼくの想いを込めていたのも事実なんです。だけどとてつもなく舌足らずなんです。きちんとジェンダー平等を目指すノンケ男性であるぼくがこれまで考えてきたこと、経験してきたことをあまりに自明のものとしてたために、こんな言い方になってしまいました。なので、この最後の段落に込めた自分の想いを改めて書きたいと思います。

まずぼくはフロリーさんの呼ぶところの「造形」にこだわって書きました。フロリーさんに以前twitter上でフロリーさんの考える「身体性」とは異なることも十分承知したうえでです。
なぜ「造形」の説明にこだわったか。フロリーさんが考える「身体性」をうまく言葉で説明できなかったからです。ぼくも「オーラ」「生き様」としか言いようがないものを感じてはいましたが、下手に言葉にしようとするとチープになってしまうな、と思いました。一回観ただけではわかった風なことも言いたくなかったから触れなかった、これが正直な気持ちです。

そして説明可能だった部分が「造形」だったわけです。この部分は目に見えるので言葉で表現可能だと思ったし、ぼくの中で「造形」と「身体性」とは不可分な関係にあるような気がしたからです。つまりぼくは目に見える形での「造形」から言葉にできない「身体性」に切り込もうとしていたのです。

そしてぼくが轟さんを観て直感的に感じたのが「身につける男性性」という言葉だったんです。
これは単なる「造形」レベルでの話しではありません。
女性の身体を有した「男役」は、まさにゼロから男性性を自分の身体に刻み込んでいくんだと思います。ひたすらに宝塚の、そして自らの考え抜いた「理想の男性性」を自分に刻み込んでいく、その過程で「男性性」が身体に付与されていくんだと思います。それは身体に「付け加える」過程であり、また抑圧からの開放も意味するんだと思います。その「男性性を付与する」ということを目に見える形で文字どおりに示していたのが「造形」だったのかな、とぼくは思ったんです。
そしてその「身につける」男性性には一切の不純物がない、とぼくは思いました。言葉にできないのだけど見事なまでに「権力性」が存在しないのです。これはすごいな、と思いました。この不純物のなさが、オーラとなって「男役」の身体性に出るんだな、と思います。

そして女性が「男役」になる過程と、ノンケ男性であるぼくがジェンダー平等を実践していく過程は、ちょうどコインの裏表なのかな、と思いました。女性が「男役」になるために不純物を取り除いた「理想の男性性」を「身につけていく」のに対して、ぼくがしてきたことは自分の身体に刻み込まれた「男性性」からあらゆる権力性を「削る」ことに他ならなかったんです。

フロリーさんも言っていた脚の使い方から、あごの位置や視線の置き方、口調やトーン、コミュニケーションする際の立ち位置、間合いなどなど・・・ぼくはジェンダー平等を目指す実践のなかで常に「どうやったら自分の振る舞いから権力性を取り除けるか」という視点から考えてきました。こんなことかれこれ15年くらいそういったことを考え続けてきましたが、まだ自信がもてないんです。
まだ「あなたは気づいていないだろうけど、偉そうだよ」と言われるんじゃないかという不安は常にあります。まだまだ削り足りない、そんな風に思っているわけです。

そういう想いが前回のブログの最終段落に自嘲的に出たんです。自分なりにストイックにやってきたけどぼくはまだまだ削り足りないのかな、そんな想いが込められていました。「男役」の示す「男性性」に対する羨望とジェラシーも入り交じった、そんな複雑な想いです。
さて続きです。
前回は男役全体を眺めて複数の男性性の配置について書きました。
今日は主演の轟さんが表現する男性性、それはおそらく宝塚の描く理想の男性とイコールと言っていいと思うのですが、に特に注目したいと思います。

☆身にまとう男性性
 一言で言うのなら、轟さんは研ぎすまされた身体に文字どおり男性性を「身にまとっていく」ような形で表現している、という印象を受けました。ここでいう「身にまとう」とは身体表現そして物理的な衣装も含まれています。

 ぼくは特に上半身の表現方法に力を入れているような気がしました。
 まず両肩の端と骨盤の両端を結ぶ四角形をまるで板のようにして演じていたのが印象的でした。上半身をねじる、という動きがほとんどなかったように思います。体幹をしっかりとさせることで、大きくそして直線的な男性性を表現しようとしているのかな、と思いました。こうした男性性は特に娘役の演じる女性性との対比でより引き立っていました。しかしそれだけではただごつくて固い男性性になってしまうところを、轟さんの手足の長さやしなやかさで見事に中和させてるな~、と思いました。このバランスがとてつもなく絶妙でした。

 その他にも上半身を「男らしく」演じるために、衣装においても様々な工夫がなされていました。
 まず首の部分なのですが、轟さんのみえりを立てており、そうすることで首まわりのシルエットを大きく見せる効果があったと思います。シルエットを大きく見せると言えばシャツの袖を大きくひらひらさせているのも同様の効果のためかな、と思いました。

 またスカーフというのでしょうか、あの胸の部分にかかるヒラヒラが轟さんのが一番大きかった。厚い胸板を演出しているのだと思います。また轟さんのはおるジャケットのみ肩の部分の端が山形に盛り上がっており、男性的なたくましい肩に見せるように工夫がなされていました。

 そして恐らくなのですが、轟さんの肩から背中にかけ、ちょうど僧坊筋のあたりを盛り上げるためにベストの下に何か装着していたと思います。実はこの「たくましい背中」って男性性の表現でとてつもなく大切な演出だと思います。ぼく自身アメフトしてた頃ぷちウエトレマニアだったのでわかるのですが、大胸筋より僧坊筋鍛える方が上半身映えるんですよw

 こうして轟さんの上半身に厚みをもたせ、準主役であるウラジーミル・レンスキー(彩那音さん)と革命思想家(緒月遠麻さん)にはそうした装飾をしないことにより(明らかにオネーギンと比較して薄いです)、たくましい男性性を強調する効果があったと思います。その一方でウエスト部分の装飾を抑えることにより、軍人ドミトリー・ラフスキー(蓮城まことさん)と比較で、引き締まった色気も強調されていたのだと思います。(蓮城さんのウエスト部分は物理的にも厚みを持たせるようにしていたと思います)。

 ちなみにこれも轟さんのみに許されていた表現があってとても印象的だったのですが、それは肘の使い方です。ひじを軽く曲げて肘の先端が背中の後ろ側にまで引き指をパンツのポケットに入れることで、胸板を大きく見せるという表現をしていました。それがまたかっこいいんですよね。あと轟さんのみがロングコートを着ていました。これもまたかっこ良かった~。
 
 こんな風に書くと、こうした演出さえすれば誰でも轟さんと同じような男性性を表現できるのか、と怒られそうですが、もちろんそんなことは思っていません。むしろ何も存在感が抜きん出ている轟さんの身体が表現する男性性をこれでもか、これでもか、と他の男性性との差異を強調することで、観客を魅了する「究極の男性性」に昇華されるのだと思いました。

 宝塚では基本的に物理的にはしなやかで細い身体を持つ演技者が、身体表現や衣装を身につけていくことで男性性を演じていました。その際に一切の不純物を身につけないためにとても「清く正しく美しい」男性性が表現されていたように思います。轟さんはホントかっこよかったと思います。



 ↑ここに当初は最後の段落があったのですは適切さにかけるので一旦削除します。この点を含め次回のブログでより掘り下げた形で自分が本当に言いたかったことを書きたいと思いますね。
最初に言っておきますね。
今回は、宝塚に関して全く予備知識もないジェンダー男子が宝塚を観て感じたことについて書きました。宝塚をご存知の方にとっては「そんなん当たり前で通説だよ~。馬鹿かこいつは」と思われるかもしれません。見知らぬ地を訪れた通りすがりのエスノグラファーの戯言だと思ってどうかお読みください♪

てなわけで、twitterのフォロワーさんであるフロリーさんの勧めで今月16日、日本青年館にて「オネーギン」を観てきました。ぼくが観劇する際に着目していた点は、女性がどのようにして「男性性」を表現しているのか、てところにありました。そういった点に着目したら、めっちゃ興味深く観ることが出来ました。ホント面白かったです。フロリーさん、背中を押してくれてありがとう♪

ぼくが今回「オネーギン」を観て気がついた点は大きくわけて二つあります。今回はそのうち一つの点について書きますね。

☆複数の男性性の存在とその配置ー全てはトップスターのため!

 宝塚は大きく「男役」と「娘役」に別れていますが、単純な二項対立ではないのですね。ぼくがまず感じたのは、男役が表現する男性性、娘役が表現する女性性は複数存在して、それが全てトップスターの男性性(さらにはヒロインの女性性)を輝かせるために巧妙に配置されている、という点でした。今回女性性については十分に観察できなかったので、男性性についてのみ書かせてもらいます。

 まず農民なのですが、彼らが踊っているシーンがとても印象的でした。そこでは男性、女性両方の農民が踊っているのですが、性別を隔てているものは服の形くらいなもんで(色柄は一緒)表現方法(踊り方やしぐさ、表情、メイク、衣装の作りなど)が男女で特に違いが見当たらないんです。農民の男性性と女性性はとも性別の境界線近くに配置されている、そういった印象を受けました。

 また召使い(奏乃はるとさん)や主人公オネーギンの叔父であるワシーリィ(一樹千尋さん)もまた、性別の境界線近くにいるような印象を受けました。ただカツラや服装が農民に比べより明らかに男性を表現しているのはわかりますが、表情やしぐさ、メイクを見ても特段に男性だとアピールしている感じがしません。あたかも服装だけで男性であることを徴づけてる、そんな感じでした。
 
 そしてオネーギンの脇を固める配役として、婚約者を誘惑されたためにオネーギンと決闘することとなるウラジーミル・レンスキー(彩那音さん)とオネーギンの親友であるある革命思想家(緒月遠麻さん)がいます。彼らは準主役(と言っていいのかな?)だけあってそれなりに魅力的な男性性を表現しています・・・が、いくつかの点でトップスターの男性性よりも文字通り「見劣り」するように表現されています。詳しくは「後編」で語りますが、ごくごく単純化して言うならば「彼ら」はオネーギンよりも物理的に「小さく薄く」表現されていました。逆に言うならばオネーギンの男性性は彼らより「大きく厚く」表現されているということです。

 さらに興味深いのはオネーギン同様、いやオネーギンより少しだけ物理的に「大きくて厚い」配役がありました。それは革命を画策する軍人ドミトリー・ラフスキー(蓮城まことさん)です。ところが不思議なことに、オネーギンと比べるとやはりオネーギンがより魅力的に見えるのです。違いはなんなんだろうな、と思いよくよく観てみたら・・・ドミトリーは余計に「太い」のです。具体的に言うならば、腰回りを意図的に太くすることによって、彼から「男性としての色気」が消し去られているのです。つまりオネーギンは「大きくて厚く」そして「締まっている」のです。

 こんな風にして、性別の境界線近くに配置された男性性、トップスターと比較して「見劣りするが魅力ある」男性性、トップスターと比較すると「男っぽいけど色気がない」男性性といった、複数の男性性を配置することで、トップスターの表現する男性性がより魅力的に映える、際立つ、そんな感じがしました。

 さて前編はこんな感じです。後編はトップスターである轟悠さんがどのように、そしてどのような男性性を演じていたかについて書きたいと思います。
・・・でも前編であまりにも酷評されるようだったらお蔵入りです(笑)