この歌集について、まず作者の声から聴いておこう。
「あとがき」からの抜粋。
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 ゆめのほとりに鳥がいることに気づいたのは、いつだったのだろう。
ずっと、いる。
 羽根があるのに飛び立たず、飛び立てず。
 たぶん、同じ鳥なんだと思う。
 (略)
 でも、いる。永遠のようにいる。
 厳然と。それぞれひとりぽっちで。

 あれはわたしそのものか、または世界そのものだ。

 あの鳥たちに、「実際に」会いたいと思う。けれど、あの鳥たちに「実際に」会うと、「わたし」か「世界」が消えるのだろうと感じる。
 ゆめのほとり鳥はゆめを見ている。「こちら」を見ることはない。
 気づかれてはならない。目覚めさせてはいけない。気づいて目覚めたたら、飛び立っていって(「すべて」が消えて)しまうから。(以下、略)
   ※
 これは世に溢れる「指示表出」語ではなく、歌人である著者の「文学的自己表出」語で書かれている文章である。
「指示表出」語というのは、いちばん硬いのが論述文のように理路整然と論理を述べる言葉である。客観的であることを条件として、事実に基づく表現をし、それを伝達しようとする。そこに謎がある場合、その謎を解明し、その「解明」した言葉の正しさを論証しようとする。
また「指示表出」語には、そんな論説文・報道文ほどの厳密さはなく、世間という共同体で共有される常識に依存した意見、感想、噂なども含まれる。つまり「事実」と人が思うことがらなどについて語り、伝えることを目的とする言葉のことだ。
 その対極に同じ言葉を使って表現される、まったく異質の「文学的自己表出」語がある。
この「文学的」という表現の種類は、世の中の表面的な「事実」には基づかない、作者のこころの中に内面化された思いを、比喩などの多様な表現方法を使って表現するということである。そして「自己表出」というのが、自分が生きてきた過程で、「指示表出」言語世界からはみ出し、零れしまう自分独自の思いを表現するということだ。
 だから「文学的自己表出」は、「指示表出」と違って、原則として言葉による一義的な「伝達」を目的とはせず、謎などを解明したりもせず、自分の述べていることの「正しさ」を主張したりしないということでもある。
「文学的自己表出」は世界や人間という存在の謎には挑むが解明はしない。
「文学的自己表出」は謎について思い巡らせた自分の思いの「正しさ」を主張したりはしない。「文学的自己表出」はむしろ新しい謎を発見して、それを文学的、創造的に表現することである。
 そういう意味で、九螺ささらの歌集や、随筆・創作を伴う短歌創作行為は、すべて文学的である。他の歌人の歌集などは、文学的文章の随筆的な、作者の境涯詠に留まっている。
 誤解を畏れずに言ってしまうならば、和歌・短歌の永い歴史の中で、九螺ささらは初めて「文学らしい文学である短歌」を創造している歌人だと言ってもいいだろう。
 それはこの「あとがき」の中盤で次のように述べていることが証明している。
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 短歌は「不思議」と相性がいいと思う。『ゆめのほとり鳥』でわたしは、「不思議」を表現してみた。
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 どうだろうか。私が先に述べた、「文学的自己表出」はむしろ新しい謎を発見して、それを文学的、創造的に表現することであるという、文学である条件を満たす言葉ではないか。
 これまでの短歌にも「謎」を詠んだものは存在する。
 だが、「詠まれ方」が違うのだ。
 既存の短歌の「謎の詠まれ方」は「詠嘆」であった。
 九螺ささらの「謎の詠み方」は、発見的創造表現である。
 そのことが決定的に違う。
 そのことが、短歌の歴史に一つのエポックを為したと私が感じる所以である。
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『ゆめのほとり鳥』を読んだ読者は、自分の中に同じような、でもまったく違う、自分だけの鳥を住まわせることになるだろう。
 謎を謎として感受する豊かな文学世界に感応し、自分なりの「謎」の在処を、自分の心の中に「書き込む」という体験をするだろう。
 そう、それこそが文学という表現の「伝達」の仕方なのだ。
 文学の主題を作者は決して、その作品の中には書いたりしない。
 主題や主張を書いてしまうのは、エンタメ的娯楽作品である。
 文学の主題は、ある作品を鑑賞したすべての人の心に、それぞれ違う形で「書き込まれる」ものである。
 何かの自明的な、合〈目的〉的なメッセージを受け取れる短歌は、文芸的であるが、文学ではない。
 九螺ささらはなんのメッセージも送らない。
 何かを伝えようなどとはしていない。
 ただ「謎」を創造し、表現しているだけである。
 だが、読者は読後、自分の心に何か「不思議なもの」が書き込まれてしまっていることに気が付くだろう。
 それが九螺ささらの生み出し続けている文学短歌である。

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☆ 「気配、またはあの世の手触り」の章から

  時空からしたたった泡我というかりんとう好きの有機体である

 我という存在に対する無条件の信頼がなければ、この世ではうまく生きてゆけないだろう。そんな精神的には深刻なことも、下の句の「かりんとう好きの有機体」と表現して、答えではない、生きて在る実存的な実感を置く表現になっている。

  《非常口》の緑のヒトは清潔なきっとわたしの運命の人

 最初は「ヒト」という表彰であるものを、最後には「運命の人」という存在へと引き寄せる表現がされている。「緑のヒト」は、災害が起こるであろう、この現場から、外へ逃亡することを表彰している。この世の実体を纏わないので「清潔」である。この「清潔」さが、作者の「運命」の「人」である理由である。この世の嘘くさい「リアル」から、どこでもない「場所」への逃亡である。その逃亡の先に何があるかは、だれも知らない。そこに謎を創造的に置いている。

  点過去と線過去のあるスペイン語思い出は点と線で描かれる

 この「スペイン」も実態ではなく表象だろう。スペインという国の過去、つまり歴史の点と線といえば、ドイツ空軍のコンドル軍団によってビスカヤ県のゲルニカが受けた都市無差別爆撃(ゲルニカ爆撃)を想起してしまう。スペインの画家パブロ・ピカソがスペイン内戦中の一九三七年に描いた絵画、およびそれと同じ絵柄で作られた壁画も、それを主題としている。点として言えば、発表当初の評価は高くなかったという事実。線として言えば、やがて反戦や抵抗のシンボルとなった事実を思わざるを得ない。一方、日本人の「私」の「思い出」の点と線過去には何が表象されるのだろう。どこか空虚感を漂わせる歌だが、こうして「歌を詠む」点である現在が、作者の明日に連なる線となってゆくだろう。そして遠い未来、彼女はそこから空虚感を追い出すことができるかも知れない。

  くりかえす陸風と海風のようにブランコがゆれるゼロになるまで

 「ゼロ」になるために「陸風と海風」は「ブランコ」のように「ゆれる」のではない。「ゼロになるまで」ただ「ゆれる」のだ。何故と「詠わない」で何故を表現する文学的表現である。ここにも斬新な「謎」の創造的表現がある。

  ドアスコープの魚眼レンズを覗いたら一(ひと)滴(しずく)のこの世が見えた
  公園は散歩のためにある幻公園を出ると散歩が消える
  (なんだろう、これは…)と呟き1号は自身の涙で錆びついていった

 謎は迷宮の形をしている。存在は「一滴の迷宮」という謎であり、元々幻である「公園を出ると」消えてしまう「散歩」という人生遊戯である。「錆びつく」金属的身体を持つ1号も迷宮的存在の表彰として、ただ問う(なんだろう、これは…)と。果てしなく機械化する存在の、現代的な「謎」が問われ、創造的に表現されている。

  閉じた脳閉じた宇宙と同じもの我は目を閉じ宇宙を見てる

 作者にかかれば「宇宙」は無限ではなく「閉じた」世界だ。目を開けて空を見上げる人にとっては無限の可能性を暗示する場所だが、「目を閉じて」世界を見る孤独な歌人には、狭くも広大な脳という迷宮の謎の在処である。

☆ 「シナモンロールという思想」の章から

   もう一生かなわない夢甘くされ瓶入りのマーマレードジャム

 「甘くされ」という受動表現語で、その上下の表現があやうく接続されている。「瓶入りのマーマレードジャム」は、「ジャム」になるために「甘くされ」た物である。そこに因果関係はあっても「受動的」であることへの受難性はない。だが上の「もう一生かなわない夢」という観念は、砂糖づけにされた「受動」に「受難性」を帯びている。不可抗力の何かを問う主題が表現されている。

   気付いたり傷付いたりして秋ふかくスイートポテトの焦げ目美し

 傷付く前に気付くことはできない。傷付けられて何かに気が付くのだ。だがこの歌の作者は傷付く前に、さまざまなことに気付いている。そのさまざまな事の中の一つが傷付くことだが、「秋ふかくスイートポテトの焦げ目」を「美し」と愛でるように、その「傷」を抱きしめている。言葉の芸術に昇華することでしか抱きしめられない何かと共に。

☆ 「舟と浮力と」の章から

 この章には身体を纏わされた観念のエロスが描かれている。

  ばらばらなわたしはきみと目が合うたびに縫い合わされシーツになってく

エロスは対他的眼差しを獲得した観念にしか生じない。独りでは「ばらばら」な身体的パーツ状でしかない。「きみ」という他者の身体的としての眼差しが、私という「ばらばら」の観念である「わたし」を一枚の「シーツ」状に「縫い合わされ」るのだ。「シーツ」とは観念とエロスが出会う白い舞台である。

 独房の我の裸体の窓である穴がだれかとつながる弥生

生々しい性交という身体的な場面を、こんなにメタフィジカルに、哲学的に詠んだ短歌を、これまで読んだことはない。「独房の我の裸体の窓」は女性器の暗喩を超えた哲学的存在性を表現し得ている。存在の非連続性を「独房」で、存在の身体という、閉じた容れものに投げ入れられたような存在の被投性を「裸体」と表現し、外界との通信に不自由な「窓」を必要とする存在の不自由さが巧みに表現されている。
  
 「なつかしい…」きみが呟くとききみは過去にさらわれすこし薄くなる

「なつかしい…」は恋人の男の方の呟きだろう。抱擁の最中ではなく前後、あるは総括的な思いの表出に違いない。女性の身体に「故郷性」を見出すのは、男という身体の孤独性を剥き出しにする。郷愁という共同体的記憶の「過去にさらわれて」、男は存在を希薄化させる。女性である「わたし」は今という官能に実体化したばかりだというのに。男性性と女性性はこうしてすれ違うのだ。
 それでも他者である恋人は「わたし」を「薬草」のように癒し、わたしに生きる「浮力」を与えると、この若い歌人は謳っている。

  約束は薬草に似て生えてくるいつか言葉を埋めた場所から
  舫(もや)われた二艘の舟として生きるきみの存在がわたしの浮力

☆ 「フェルマータの意味は『バス停』」の章から

「フェルマータ」とは拍子の運動の停止を意味する。「拍子の運動の停止」とは、進行する楽曲のそれまでのテンポによる進行が一時中断されること。そしてこの符号の付いた場所で程よく休止する。余韻を持たせることや、次の始動の間合いを図る「延長記号」である。その長さは特に制限がなく,演奏者の解釈や,楽曲中の記号の付された場所によっても異なる。この記号の形は、中心点と一つの同心円の上半分を切り取った、ドーム状の形をしている。作者はそれをバスを待つ「バス停」に準えている。屋根つきの何やら憩いの趣がある。
 そんな章だというのに、何やら不穏な響きの一首だけ揚げておく。

  不要だと集められたる六千のビアノが奏でる〈乙女の祈り〉

 「不要」性は集めることにも、六千という厖大な数にも、奏でることにも、〈乙女の祈り〉にも係り、この短歌の精神のすべてを統べる。そして作者の「短歌創作」行為をも指し示す。この誇りと自嘲というアンビバレンツに、存在を疑う哲学的思弁がある。

☆ 「256日間の共同生活」の章から

  「たたむ」とき宗教であるTシャツも折りたたまれて偶像になる

実体のあるものが「偶像」化される過程を、洗濯された「Tシャツ」が「折りたたまれて」いく過程という生活に引き付けて比喩化している。その場合は生活という安定信仰を支える行為である。「宗教」を支える民衆の安定信仰は、その心を束ねる表象、祈りの対象物としての「偶像」を必要とする。そのためにはなるべく実体性を削ぎ落し、抽象化された具体物にする必要がある。ものごとをむやみに「折りたたむ」行為は、人を「信仰」へと呪縛する行為だ。

☆ 「ゆめとげんじつの重なった場所にある街のこと」の章から

 この章題の通り夢と現実が重なる歌が収められている。重なるというより夢からはみだしたものが、現実世界で物象化している現象を詠んでいる歌だともいえよう。
 ここにも九螺ささらの哲学的な形而上学的視座がある。それは別の角度から見れば、この世のものはみな夢幻だという思想に繋がる。現代哲学的観点から見れば、世界の果てしない「物象化」を哲学的に分析・批判したアドルノのように、経済至上主義的にすべてが進行する世界では、あらゆるものが「物」化してゆくこと、人の思いでさえも商品という物象化の果てに、本質を喪失して無限の物質化し流通することへの批判意識を、これらの歌は孕み込んでいる。

  おとといの夢をはみ出た白鳥座がパンタグラフになり火花散る

 夢の星座は現実世界で「パンタグラフ」に物象化して、送電線と電車を繋ぐ、電力の架け橋と化している。今夜も翼を広げた「白鳥座」が愁いの火花を散らして山の手線状を周回している。あらゆることの物象化世界に生じる閉塞感が見事に表現されている歌だといえよう。

  「ハープとはゆめのほとり鳥の化身です」と余命二ヶ月の館長は言う

 博物館の館長なのか。音楽の施設ではない所に置かれたハープには、もう音を奏でない状態であることが覗える。かつて優雅な調べを奏でていた「物」として陳列されているのだろう。そのかつての音の証言者は「余命二ヶ月」である。死期を悟って初めて見えてきた景を証言しているかのようだ。世界の秘密。謎を垣間見た者の慄きのような雰囲気が伝わる。

  視力検査を待つ列が街をはみ出して街の外が視覚化されてゆく

ここでも「はみ出し」感へのこだわりが詠われている。何処から? 常の暮らしの圏内である「街」から。普段は見えない「外」が「可視化」されるのは、視力検査を待つ「列」からの「はみ出し」によってしか可能にならないのだ。

 水のない水差し売り場の水差しにとって水とは概念である

 そう。私たちはほんとうの実体というものに、永遠に触れることなく生きているのだ。水差しはその中に水という実体を容れられて、水を識る。それまでは自分に関連づけられた概念である。人という容れ物にとって「人生」とは永遠に実体ではなく概念であるのと同じことだ。死という未完結の完結によって「人生」は初めて現象するものだからだ。

  「なぜだろう、鳥の死体ってみないね」長月の坂道はとても長く

 文学は「何故」という日々新たな謎を発見して、永久に問い続ける形で表現するものだ。この歌にはそれがある。問われることによって、読者はそこに謎があることを識るのだ。人の食卓に上がる鳥の遺体のパーツは「死体」ではなく、調理品である。野生に触れて生きていた人間は日常的に見てきたはずだ。たが「長月の坂道」という野生を失った都市の、スリップする坂道では野生に遭遇することはない。私たちはそんなところで暮らすようになって久しい。

☆ 「宇宙へのアクセスとしての眠り」の章から

  夢の中で書き続けている日記ありわたしが読めるのは永眠のあと

 そうなると、その日記に何が書かれているのかという謎が発生する。どうやら書いた本人も何が書かれたのか知らないようだ。夢を見るという行為が夢の「日記を書く」ことそのものだから、書いた本人は、それがどのように書かれたかという「記録」を、他人事のように「読書」できない。これもほぼ人生と同義である。

☆ 「春先の17ヘクトパスカルの気圧」の章から

  脈を打つ手紙まっしろな全身ペーハーナイフで開腹してゆく

「手紙」には文字と文章が書かれた紙が入っている。「脈」はその行間から発されている。封筒に入れられて「手紙」の形になる。作者はそこに心臓のような動悸を感受している。自分が「まっしろな全身ペーパーナイフ」と化して「開腹」する。作者はおののいているのだ。「開腹」は「手紙」の死の儀式であり、読む前に言葉が失われてしまうのではないか、と。
「手紙」であれ、書物であれ、私たちは一度死んだ言葉にしか、永遠に出会うことはない。
 この葛藤こそが、この歌集の文学的主題であろう。

   ※
   
俳句界にも、哲学的というか、形而上学的主題で俳句を詠んだ俳人がいる。
河原枇杷男という俳人で、次のような俳句を詠んでいる。

野菊まで行くに四五人斃れけり
身のなかのまつ暗がりの螢狩り
或る闇は蟲の形をして哭けり

枇杷男の俳句観は次のようなものだ。
   ※
俳句はつねに己れ自身を問いつづけながら歩いている何かであろう。(略)その緊張を見失うとき、忽ち自壊してしまうであろうことを知っているからである。(略)私の詩と真実とは、絶望さえ絶望し、ニヒリズムのニヒリズムともいうべき創造的無の志にほかならない。(略)詩の源が、可視と不可視の二つの世界の対立の自覚に発するとすれば、形而上的思惟を缺く詩業などありえないであろう。(略)詩の表現行為とは、闇と沈黙の言葉を視聴せんとする内なる劇に他ならないであろう。        (立風書房『現代俳句全集』「自作ノート」)
   ※
 枇杷男は作句法の中心的主題を「死」に置く表現をしている。死という観念と季語の取り合わせという方法で「形而上学的な感傷」、「存在の根源的哀しみ」を表現したと主張した。

  何もなく死は夕焼に諸手つく

枇杷男俳句では形而上的観念そのものが身体性を帯びる。死という観念そのものである精神主体が「夕焼けに諸手つく」という行為をしている。「何もなく」は死ねば何も無くなるとか、死後の無を表現しているのではなく、それ以外に為すべきことが何もない状態を表している。他に為すことが「何もなく」、ただ死という行為をする精神主体が「夕焼けに諸手つく」という幻想的表現で、反感傷的な存在論的な主題が造形されている。

死の襞をはらへばひとつ籾落ちぬ
我失せつつあり手のひらに梨置けば
顧みれば虚無は菫にまだ跼む
枯野くるひとりは嗄れし死者の声    
昼顔や死は目をあける風の中    
蛇苺われも喩として在る如し

どこか、九螺ささらの文学的主題とクロスするものを感じる。それは何か。
存在の謎を問いつづけるという根源的な文学的姿勢である。
ところが、金子兜太(故人)という俳句界の大御所が、「枇杷男の俳句に身体性が感じられるかね」と批判した。
このように俳句界では、枇杷男俳句のような形而上学俳句の価値が理解されていない。
短歌界における九螺短歌も、そのような視点でマイナス評価されないか、密かに案じている。
九螺ささらの短歌と比べると、枇杷男俳句は、形式が短いという限界もあり、発想の起点から観念的で、俳句も観念の造形で完結して、閉じた表現である。
しかし、九螺ささらの哲学短歌は、実存的な心身の「実感」的なところから立ち上げられるという、表見上の強度があり、その点が違う。枇杷男が男で、九螺ささらが女性であるという違いも、そこにあるのではないだろうか。
日常の実感から立ち上げつつも、それを疑う、言葉と心の揺らぎを形象化するような、新しいメタフィジカル短歌を詠む九螺ささらが、短歌界で正当に評価されることを願う。
歌集は、背景に物語的なフィクショナルな仕掛けを施し、通常の歌集にある、境涯詠の時系列的編集という陳腐さを脱した、九螺ささららしい表現になっている。
作家は他人の評価など気にせず、自分の信じた道を真っすぐ行くだけでいいのだが、優れた作品が正当に評価されないのは文学的損失である。
そういう意味で、九螺短歌の価値が広く理解されることを祈っている。