【町を歩けば】 | 村の黒うさぎのブログ 

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大自然の中で育って、都会の結婚生活へ。日常生活の中のイベント、出来事、雑感を、エッセイにしています。脚色はせず、ありのままに書き続けて来ました。

 

原宿で考える
カタツムリとナメクジ
町に佇む彫像


原宿で考える

原宿を歩きながら、ずっと考えていた。
小汚ない。私は原宿の通りに立って見渡し、まず思う。小汚なさ・薄汚なさでは、私が住んでいる町の駅前に並ぶ。
原宿を代表する「竹下通り」に、その名声・人気と実際との、隔たりを感じる。

何故かといえば、建物の壁とかに、くたびれた古さを感じる。建物が劣化しているのだ。
通りには建物全体に、「時の埃が積もっている」と言うのだろうか。
道路にはゴミが散らばる。早朝に、掃き掃除をしてみえる人がいる。

余談だが、今日のウォーキングの目的地は、”原宿の裏通り”だった。
「モーツァルト通り」と「ブラームスの小径」と名付けられた、お洒落な径があった。
喫茶店、ブラームスの胸像、今が盛りの紫陽花などの連なる、規模の小さなヨーロッパ風の街並みである。
ドン・ファンと闘牛士の、カリカッチュア(影絵)の像が壁に描かれている。ドン・ファンは「R・シュトラウス」作曲。闘牛士が登場するのは、「ビゼー」のカルメンではあるが。
そんな欧風な魅力のある、モーツァルト通りとブラームスの径だ。
表通りとは、一線を画する雰囲気ある、裏通りの径だった。
表通りが陳腐になったので、お洒落な裏通りを演出してみたのだろうか? 私は散策して、適当なことを考えていた。

ところで、一昨年のNHK朝ドラ「ちむどんどん」に於いて。
沖縄から上京した、主人公の仲間が登場した。悟は歌子に、原宿で高価なネックレスを買ってプレゼントした。それは、歌子によく似合っていた。
斯様に、原宿のネームバリューは不変である。

そして、訪れた早朝と違い、表通りも日中は、大変な賑わいだそうだ。
-装飾の可愛い街並みに関わらず、小汚なさを隠せない原宿。それが人気があるのは何故なのか-

思いに駆られ、私達はもう一度、「竹下通り」を歩いてみた。
そのお店、品揃えは、一言で表して”ファンシー”である。ドッグカフェ、コスプレの衣裳のお店、ブティック、クレープ屋さんなどが立ち並ぶ。
うーん... 私は、しばし考え込む。

「昭和レトロだよ」
主人の言葉だ。

そうか、それだ!! おなかにストンと落ちた。
人々は、昭和レトロな原宿の佇まいの中へと、最新作のファッションアイテムやグッズ、流行のサービスを求めて、繰り出してゆくのだ。
私が府に落ちて納得出来た、「昭和レトロ」が魅力な原宿のお話。




カタツムリとナメクジ

バス停の低木の茂みに、カタツムリの姿を見つけた。可愛いらしさと珍しさに、私は微笑んだ。除草剤を撒く近年、カタツムリを見かけなくなったと思うのは、私だけだろうか?

幼い頃、家の敷地にいるカタツムリを見つけて、何匹も捕ってきて、遊んだものだ。
また、図工でカタツムリをモチーフに工作したり、美術では、カタツムリを題材に絵画を描いたりした。先生の評価は高く、周囲からも好評だった。
翻って、私はナメクジは苦手だ。姿を見ると固まってしまい、何も出来なくなる。理屈ではない。生理的に駄目なのだ。

ところが最近、カタツムリとナメクジは、生物の種としては同じであることを知った。殻を背負っているか、そうでないかの違いだけだそうだ。
私は60年の半生で、カタツムリとナメクジに、天と地ほどの意識の違いを抱いてきた。
ナメクジに対する、何という偏見・差別・理不尽・無情... 
大げさではない。冷や汗ものである。

... でも、やっぱり苦手だ。



町に佇む彫像

私はこの10年間、毎週末ウォーキングをして、千葉県・東京都・神奈川県内の、様々な町で多くのブロンズ像を見てきた。
どういう基準で、その自治体の像の作者を選ぶのか? ずっと疑問に思っていた。
この頃になって、その地域に住む彫刻家、あるいは地域ゆかりの彫刻家が、作品を町内に展示していることがわかった。

理由として。絵画は梱包し易く、かさ張らず、比較的軽い。よって搬送の便が良く、美術館の絵画展として展示しやすい。
対して彫像は、重くかさ張り、持ち運びの便が良くない。メジャーな彫刻家の作品でなければ、発表の場が狭まる。
よって彫刻家の住む自治体の公園、広場等に設置することで、発表の場としていると思われる。

①趣味の良い素敵な像
「ああ、この自治体の彫像は、趣味が良くて素敵だな」
時々感心する。こういう彫像は、主人も好んで写真におさめる。
今朝訪れた町でも、惚れ惚れする様なブロンズ製の女性像があった。様々な角度から撮影して、二人で像に見とれた。
同じ町内には、「龍と仙人」の様に、微笑ましくユニークな像も置かれる。
これらの彫像から去る時は、惜しまれた。

②インパクトある、奇想天外な像
頻度は少ないが、たまに出逢う。
「青い瞳をした顔をもつ、シーラカンスの変形」
「人の胎児と臍帯の像」
本当に、仰け反る思いで像と対面した。

③抽象的な像
比較的多くみられる。題名があって、どう見れば像の形とその題名が結びつくのかと考え込む。解る時も解らない時もある。
実力に自信の無い彫刻家が、抽象的な像を制作することで、ごまかしているという説もある。

④悪趣味な像
言葉にするのもはばかれる様な像が、幾つか佇む町があった。
この自治体を訪れて以来、自治体が像の彫刻家を選ぶ方法に、興味を抱く様になった。

⑤凡庸な像
こういう像の佇む自治体が、頻度としては多い。
ありきたりなポーズをした、何気無い人物像であることが多い。


(ブロンズ像をはじめ彫像については、不勉強な点が多く、異論・反論ありましたらメッセージ頂ければ、ありがたく拝読します)