この写真は子供が5歳で、監督は母親の介護で会社を辞めたころ。妻も大学院を辞め理想の語学スクールを作りたいとビルを購入し防音壁までつくってレインボーランゲ―ジハウスを設立した。

生徒数が2年目ですでに100人を突破し、妻はその指導やカリュキュラムの作成で毎晩夜中まで働いた。だから、家の掃除はお手伝いさんに頼み、母の自宅介護や、息子の世話と幼稚園への送り迎え、食事作りは監督の仕事だった。

 

幼稚園の年中さんからアメリカにわたる中1の夏までの8年間、朝起きてから寝るまで食事も遊びもお風呂もお勉強もずっと一緒だった。うちはTVがない(あるけれどつながっていない)から、春から秋は自転車、かくれんぼに缶蹴り、キャッチボールやサッカー 近所の子供たちが毎日集って基地を作りリレーをして、とにかく走りまわった。冬はスキー三昧、6歳からコーチにつきその後はスノーボードを習わせた。 ご飯はずっとうちで作ったから、コンビニや外食はしなかった。監督が料理するところを見て育ったから、だしの取り方から天ぷらまで何でも器用につくれるようになった。お弁当の時だけ妻と2人で和洋折衷の弁当をもたせた。

 

お勉強については、小学6年間1日も欠かさず一緒にやった。本も読みきかせ、そのころ監督はこの辺では「紙芝居おじさん」だったから、小学校や幼稚園や学童に出張して年間延べ3000人の子供たちを相手に演じた。子供はそれを友達たちと一緒にみていた。

当時は「ゆとり教育」のせいか、学校の宿題は毎日10分もかからない。算数ドリルを1日で1冊(1年分)終わってしまうこともあった。

小学5年の時、リトマス試験紙の色の変わる理由を聞くので、わからないから、元居た会社のエンジニアにメールを入れてきいたこともあった。即日絵入りで説明が返信されて「学校の先生も分からない」といった疑問がとけて大喜びだった。

 

小学4年のときはじめてアメリカ留学をした。アメリカの中学受験を目指していたので小5から平均で4時間の受験勉強をやった。嘘みたいな猛烈受験に聞こえるかもしれないけれど、母親はアメリカ人だし教育の専門家、それに語学スクールを経営していたのでPhd.を持つうちのアメリカ人講師をつけて早くからESSEY対策もとった。当時通った浦佐小学校の校長と教頭と、それに担任が相談をしてうちの子供の文化的背景を理解して留学への協力体制をとってくださった。多くの時間を自宅学習に使うことを許容してくれた。毎日クラスメートが窓から大きく手を振って「頑張ってね」と早帰りをしたものだ。

全て実話だよ。中学受験の時、オバマ大統領の就任と重なり、一つは彼の出身中学だったので競争率が数十倍となったが合格した。

 

SSATを受ける日、過労で妻が熱を出して倒れたが「3人で受験をする!」というム―ドがしっかり家族にあったので、車で東京にいって前泊し、調布のアメリカンスクールで受験をした。妻は近くのホテルのベットで横になったまま息子を送り出した。

当時小6の子供は「ママお大事に ありがとうね」といって母親のほおにキスをした。

結果は3科目とも全米でTOP3%前後に入り受験を確実なものにした。その後ホノルルで本試験の日、面接で向こうのディレクターにきいたら「うちに受験に来る子供が全員このレベルです。」と言われて慌てたこともあったけれど。

 

こんな風に、毎日ご飯を作って食べさせて送り迎えをして一緒に走って遊んでお勉強をして温泉にいって・・・演歌をきかせて・・・そういう時間の経過の中で子供が小5のころだった・・言ってくれたこの言葉が忘れられない。私(監督)の人生で最高の一言になった。

 

「もし、パパが浦佐小にいてクラスメイトなら

僕はパパと1番の親友になれたね!」

「そうやなあ パパもそう思う。」とさりげなく答えたが、実は子供がそういってくれたことを天に感謝しないといけないなあと深く感じ入っていたんだ。厳しく叱りつけ涙を拭きながらお勉強やスキーの練習をしたこともあった。アメリカの単位が違うので算数の指導をしていて問題集を床に放り投げて叱ったこともあった。泣きながら拾ううちの子供を近所に住む長年の知り合いでもあったお手伝いさんが傍で見ていて「ここまで厳しい親はいないと思うよ。泣きながらついてくる○○君も偉いけれど、よくやると思う。」 と言ってくれたこともあった。

 

親の期待に子供は応えようとする。親はその期待に歯止めがきかなくなることもある。そして子供が体や心を病むまで無理をすることもあろう。根底にながれる親子の愛に支えられるときあらゆる選択肢があり妥協も挫折も、失敗もあっていいはずだ。

うまくいってもいかなくてもいかなる時もお互いを思い、その親子の情に支えられて生きていくんだ。

「1番の親友だね!」…その言葉は強い信頼、親への愛情を11歳の子供の心にみた瞬間だった。

許してもらったような気持ちさえ覚えた。

 

あれから10年、息子とはずっと離れて暮らしている。

もう1度一緒に暮らしたい。

時には親友のように・・・

                                                                          監督