今年の夏、息子が2年ぶり帰国した時、2人で龍言に泊まった。日本を離れたのは13歳の時だった。このままアメリカで暮らしていくことになるだろうから、日本の旅館も思い出になると思った。18歳なのでお酒は飲めないが温泉にはいり、部屋出しの料理を2人で満喫した。私はおしゃべりで説教好きなのになぜかあまり話すことが浮かばなかった。ただ自分よりずっと大きくなった浴衣姿の息子を久々にここ南魚沼の空気の中で見つめていた。しばらくして息子が「何かこの際言っておくことない?何でも言ってください。」と切り出した。実は息子が、日本の帰ってきたら一つだけ話しておきたいと考えていたことがあった。私は話をはじめた。
「アメリカの学校のすさまじい競争の中よく耐えた。大学の専攻も好きに選べばいい。何をめざそうがかまわない。このままいくとしばらくアメリカ本土で暮らす可能性が高い。
一つだけ心にとどめておいてほしいことは、遠い将来必ず近くに住もう、そばでお互いいたわりあい、支えあえる環境を意識して作っていこう。それだけ言っておくよ。」
息子は「うん。わかりました。」と言った。
 私の両親は2人とも雪国大和病院で亡くなった。暖かい兵庫から人生の最後の最後に突然雪深いこの地に移り住んだ。選択肢は限られていた。母は介護が、父は看病が必要であった。私たちが兵庫に行くか、彼らがこちらに来るか、私は会社を辞め、妻と起業をしてこの地に両親を半ば無理やり連れてきた。彼らは40年以上住んだ姫路の自宅を片付ける時間もなく、まず母が、そして父が浦佐に移り住んだ。
 私と同じ独り子である息子に、今のうちから意識させておきたい。親子の絆が強くとも距離は時に残酷だ。まして国をまたぐとどうすることも出来ないことがある。私は父の死に目に会っていない。毎日父の病室に何度も通う日々を送っていたのに、たまたまその年の瀬にテキサスにある妻の実家に里帰りをした11日間、その10日目に父は突然亡くなった。急遽飛行機をとり直し戻ったが父はすでに病院から自宅に移されたあとだった。遺体は一人で居間に横たわっていた。母の介護中に、長らくベットをおいていたせいで畳はボロボロで、父はまさかそのような状況に安置されるとは夢にもおもわなかったであろう。私はそれを見て呆然とした。痛ましく思えて涙さえ出なかった。そして一晩中只管わびた。私のようにそばにいても親の死に目に会えなかったわけだから、尚更、先のことを考えておくことは無駄にはならないだろう。息子の暮らしていくであろう国は海の向こうになるかもしれないのだ。国をへだてて年老いた肉親を案じることは大変だ。面倒をみてもらいたいのではなく遠くから会えない状況で苦しませたくないのである。
 妻にこの話をしたら「元気で健康でいられるようここ南魚沼でがんばりましょう。」といってくれた。そう願いたい。
                                            監督