最近、北海道や九州で、いじめが原因となっていると思われる自殺と、それに対する
学校・教育委員会の対応が問題となっています。
どこに問題があるのか。
ひとつは、学校・教育委員会の隠蔽体質。文部省に対して「いじめの発生はゼロ」など
という報告を上げている、その体質自体に大きな問題があります。
そして、「いじめ」が小手先の対策で根治可能な事柄だとでもいうような扱い方。
いくらきれい事を言っても、人間が複数集まれば、ねたみやそねみ、いじめが発生す
るものなのです。(いわゆる「器の大きい」人間ばかりの集団であれば、そのような問題
は発生しないかも知れませんが。)
「いじめ」が人間というものに普遍的につきまとう問題であり、それは小手先の対策で
は完全には無くすことができない、そういう視点に教育者全てが立つことが、まず必要
です。
そしてまた、いじめの多くが、教師のいない所で発生しているという現実。トイレや教師
のいない状況での教室、登下校の途中。これらを把握するには、監視カメラの設置を含
めた「死角をなくす」対策が必要でしょう。(監視カメラというと、すぐにプライバシーの問
題を口にする方もいますが、ことは生徒の命に関わるレベルの話です)
そのような、いじめの把握への努力をし、一方で冷静かつ理性的に原因を探り、解決
策を複数の秘密を守れる教師により検討し、対策を講じる。
その対策は、いじめの要因を無くし、根治する、というのが理想的ですが、場合によって
は、「いじめは根治できないまでも、自殺者を出さない」という次善の策であっても良しと
する。
そもそも、家庭の教育がしっかりしていて、「教師の言うことを素直に聞く」 子供がい
じめられる例もあるので、これに対して、「同級生への印象も考慮して、場合によっては
教師の言うことを生真面目に聞くのではなく、ほどほどにちゃらんぽらんな面も見せつつ
最低限必要なレベルの勉強はして、ひどいいじめに会わないように過ごせ」など、通常
の教師ではアドバイスしにくいアドバイスを誰かがしてやる必要があるのです。
これらの考え方が、教師に限らず一般的に受け入れられるようになって初めて、いじめ
問題が(他の諸問題と比較して)問題とならない状況が生み出せるように思います。