金足農業と大阪桐蔭が死力を尽くして戦った夕方、空には淡い月があった。

優しい、白い、月があった。

 

毎年八月の空を見ると、辛い思いをする。

HIROSHIMA、NAGASAKI、終戦記念日。

それだけではない、無数の人々の悲しみを追体験するからだ。

 

戦争を知らずに僕らは生まれた、と歌って一世を風靡した方もすでにこの世にない。

私は、もはや戦後ではない、と首相が公言して後、随分経って生まれた。

それでも、私は断言する。

私は、戦争を忘れない。

 

甲子園で若者の流す美しい汗を見るほんの半月ほど前、

涙とため息がない交ぜにこもった筆致の作品をいくつも観た。

無言館展・・・戦没画学生の作品展だ。

 

作者の多くは美術学校の将来を嘱望された生徒たち。

戦局が混迷を極める中、繰上げ卒業させられて、戦地に赴き、その多くは異国で果てた。

彼らが召集前後に描いた絵から聞えてくるさまざまな思い。

私は時に目を背けながら、それらに耳を傾けたあの日のことが忘れられない。

 

なぜ俺は絵を描くことをあきらめなければならないのか。

なぜ俺は友人と、恋人と、家族と、別れなければならないのか。

なぜ俺は。

 

私も簡単なイラストを描くことが好きで、しょっちゅうペンを手にしている。

私にとって、絵を描くことはあくまで楽しいことだった。

「これが生涯で最後」という気持ちで描かれた絵を前に、涙が止まらなくなってしまった。

 

どんな気持ちでカンヴァスの前に立ったことだろう。

筆を進める間も刻一刻と迫る死の匂いに怯えたことだろう。

どれだけの理不尽さに身を焼き、どれだけの生への希求に身を焦がしたことだろう。

 

甲子園で思う存分戦う平成最後の高校生の姿に、彼らを重ねずにおれなかった。

若者の命は、若者自身のために使われるべきだ。

己を磨くために汗を流し、己を戒めるために涙を流し、ただ笑っていて欲しい。

大人たちの争いがその健やかな日々を奪うようなことは、もう二度とあってはならない。

 

平和な今がたまらなく嬉しく、そして悲しかった。

ここに至るまでの大きな犠牲を、戦後七十三年を数えようとも、生きている限り、私は忘れない。

私と変わらぬ人々が、ささやかな幸せを願い、懸命に暮らしていた日々があった。

それらはあっけなく蹂躙され、ことごとく破壊され、並々ならぬ努力の果てに復興し、今がある。

過ちへの代償が途方もなく大きかった分、今日(こんにち)の平和の意味は重い。

 

これが毎日だと、心がもたない。

その代わり毎年とことん思い出す。八月に、夏に。

見ることのなかった過去を偲び、見られる保証のない未来を想い、それらをつなぐ現在を確認する。

彼らが安らかであれと願う心を忘れてはいないか。

彼らの悲しみを忘れて傲慢になってはいないか。

私は正しい場所に立っているか。

 

多分どの夏も、空には淡い月があったはずだ。

夕映えの空にひっそりと、一つまみの灰のような月が。

それを見つめる若者の瞳が、来年も今年と同じように、健やかに濡れていますように。

 

※参考リンク

 1.無言館

 2.無言館 戦没画学生たちの青春 (河出文庫)