長らく続いてきた『最近知った羽生結弦くんの66のこと』もラスト2回となりました。


書き始めた時は本当に終わりが見えなくて、
冗談めいて言っていたタイトルの数字を変更するのも有りかと本気で思ったりもしましたが、
そこはちゃんと66で終われそうです。


書けと言われれば100でも200でも書けそうなのですが、
ちょっと足りないくらいがちょうどいいんじゃないかと思っているので、
やはり、この66という数字は妥当だったんじゃないかなと思っています。


ただ、終わってしまう淋しさのようなものはあります。

平昌オリンピックの振り返りの記事を書いていた時も感じたんですが、
終わりに近づくにつれ淋しくなってしまうんですよね。

終わってホッとする気持ちと
終わりたくない気持ちとが
ない交ぜになってしまって
本当に何とも言えない複雑な気持ちになってしまいます。


そんな複雑な思いを抱えながら書いたラス2のこちら、
少し長いですけど、よかったら目を通してみてください。








【最近知った羽生結弦くんの66のこと】




63 技術の上に成り立っている芸術。





帰国後の外国特派員の記者会見で、

芸術性などについての質問なんですけど
以前、「真4回転時代」という表現を使われていたかと思うんですけれども、
やはりそのジャンプというところでの点数の決め方など、
そしてその芸術性についてのバランスというものが
フィギュアスケートの場合あると思います。
スケート連盟の方が今それを改正しようとして
見直しをしようとしているというような情報があるんですけど、
それについてのコメントをお願いします、

と言われて、
その時のコメントが本当にもう感心するばかりでした。


「僕の耳の方にも、もしかしたら来シーズンから大きなルール変動があるかもしれない、ということは聞いています。

先ほども言ったように、芸術がものすごく必要である競技がゆえに、技術的なものが発達しすぎると、どうしてもその技術に相応しい芸術が足りないということを、よくフィギュアスケートでは言われます。

ただ、芸術…そのう、バレエとか例えばミュージカルとかもそうですけど、芸術というのは明らかに正しい技術、徹底された基礎によって裏付けされた表現力、芸術であって、それが足りないと芸術にはならないと僕は思っています。

だからこそ僕は、ジャンプをやる際、ステップをやる際、スピンをやる際、すべてにおいて正しい技術を使い、そしてそれを芸術として見せることが一番大切なことだと思っているので。

もちろん選手によっては、すごくジャンプが大事って人もフィギュアスケーターの中ではたくさんいるし、それで勝ってきてる人もいます。

ただ僕は難しいジャンプを跳びつつ、それがやっぱり、それがあるからこそ芸術が成り立っているんだな、というようなジャンプをこれからもしていきたいなというふうに思います」




技術だけでもない
芸術だけでもない

難しい技術の上に成り立っている芸術

それを目指している羽生くん。


言うは易し
行うは難し。


だけど、羽生くんはこれまでそうして、
その正しい技術や、徹底された基礎に裏付けされた表現力や芸術で、
多くの人を魅了してきたのだから、
これからもそうしてくれると信じています。




今頃、羽生くんは新プロに取りかかっているのでしょうか?

ルール改正などがあって
多少大変になるのかもしれませんが、
羽生くんがどんな曲でどんな滑りを見せてくれるのか、
期待しかありません。

ホント、楽しみは尽きないです。






64 何回も死のうともしました。



63で楽しみは尽きないと書いていながら、
64がこれですよ。


重い重い言葉です。




Continues 〜with Wings〜の最終日に聞いた言葉です。

衝撃的すぎて、しばらく頭から離れませんでした。


私事になりますが、
この言葉を聞いた翌週にはKAT-TUNのライブがあって、
再始動の一発目となるCDシングルも18日に発売されて、
それを聴き込んでライブに行かなければならなかったのに、

そうしたいのに
そうしたいのに、

頭の中は羽生くんでいっぱいで、
羽生くんが言ったこの言葉がぐるぐるして、

KAT-TUNどころじゃなくなってしまって
本当に困りました。



この言葉は今でも頭の中にあります。


忘れることは出来ません。


だって、羽生くん

「何回も…
何回も死のうともしました」

って言ったんですよ。


死のうと思った

でもなくて

死にたい

でもなくて

死のうともしました

ですよ。

この言葉は重いです。重たいです。


死のうと思った、なら頭で心で思っただけなのです。

死にたい、ならこれもただの願望です。


けど、死のうともした、というのは、
思っただけではなくて、
願望が含まれているのでもなくて、
行動が伴ったことを意味します。

行動に移したということなのです。


それは私の想像の域を超えていました。


死のうともしました。
死のうともしました。
死のうともしました。


何でどうやって?


けど、
彼は
羽生くんは
今、生きています。


何でどうやって思いとどまった?


それはわかりません。

わかりませんが、
この言葉には続きがありました。


「でも、でもね。
やっぱりホントに皆がこうやっていっぱい応援してくれてるし、何より僕は幸せなのは、自分が憧れている方が、方々が、自分にメッセージをくれて、震災の当時もすぐだったけど
「ゆづは大丈夫だよ」
って、ね、コメントくれて、ホントに有り難かったし、スケートやっててよかったって、

ホントに今は生きててよかったなって、ホントに思ってます」

ファンからの応援の声が
憧れの人たちからのメッセージが
彼の支えになったのでしょうか?

生きていく希望になったのでしょうか?



こういう時に身につまされます。



ぴょん堕ちだということを。



その当時の羽生くんに
一番苦しかった時の羽生くんに
何も出来なかった自分が
もどかしくてもどかしくて仕方ありません。


たらればは羽生くんも好きじゃないと言っているし、
私自身もたらればを持ち出したところで不毛なのはわかっているのですが、

それでも、

もっと前から出逢いたかった、って、
もっと前から応援したかった、って、

ついついそう思ってしまうんです。



CiONTUの中で喋ったことをあと少し載せますね。

本当はあまり載せない方がいいのかもしれませんが、
あと少しだけ大切な言葉を紹介させてください。


「死のうともしました」の前の発言です。

ファン同士の揉め事や
何喋っても何か言われるって言った後に
羽生くんはこんなことを口にしました。


「こういうことって僕だけじゃなくて、
僕は注目を浴びてるから大きく見えてるだけで、
普通の生活してる中でもたぶんあるんだと思います。

ただ、その中でね、
こうやって皆が僕の開催したショーを観に来てくれて、
いっぱい声出して、
ストレス発散して、
そんななんか幸せの一部
なれたら嬉しいなって、ホント思います」



羽生くんは「死のうともしました」と言う前に
ちゃんとこう言ってるんですよ
「幸せの一部になれたら嬉しいな」って。


【幸せ】って【死】の対極にあるものですよね。


この言葉をそっくりそのまま羽生くんに返したいとそう思いました。


羽生くんの幸せの一部になりたい

と強く強く思いました。


そして
彼の中にある【死】というものを
【幸せ】で埋め尽くしたい
って思いました。


これでもか、っていうほどの【幸せ】でいっぱいにしたい、って。



そしたら、また羽生くんは思うんでしょうね。

「今幸せだから、
またすぐ不幸がたくさん起きて
きっとまたつらい時期が来るんだろうな」

って。

これはメダリスト一夜明け会見での言葉です。

頭がいい人っていっぱい考えて
考えなくてもいいことまで考えてしまって
面倒くさいですね。←



そしたら
私はもっと多くの幸せをいっぱい羽生くんにあげます。

両手で抱えきれないほどの幸せをあげます。

不幸を覆い尽くしてしまうほどの幸せをあげます。


幸せで埋めて埋めて埋め尽くすんだからね。

幸せで覆って覆って覆い尽くすんだからね。



ね、
羽生くん、覚悟してね。





65 絶対王者。





Wikipediaによると、

【絶対王者(ぜったいおうじゃ)は、王座タイトルを保有する者の中でも、通算獲得数や連続獲得数で抜きん出た記録を持つ人物・組織に付けられる事が多い通称である。】

とのことでした。


また

「誰も疑う余地のない、絶対的なチャンピオン」

ともありました。


オリンピック2連覇の偉業を達成した羽生くんは
まさに
絶対王者
と呼ぶに相応しい人物ですよね。


誰も疑う余地などないことでしょう。



実力も風貌も風格も人望も名誉も名声も
すべてを兼ね備えた若干23歳の

絶対王者、羽生結弦。






ですが。







【最近知った羽生結弦くんの66のこと】



とても意味深な終わり方をしました。


すみません。


ラスト、66に続きます。


66でこの言葉の意味がわかると思います。






(お写真有難くお借りしました)