いずれも「今の現実は現実ではない」という話である。

いつか答えが分かる、その時代に生きていたいな。

しかし面白い。

 

 

http://www.voynich.com/matrix/index.html

 

この世とはなにか?

なんで自分はここに存在しているのか?

宇宙はある瞬間にできたのか?ずっとあるものなのか?

 

普段忙しい日々を過ごしていると普段は考えない問題である。

しかし、ふと人生の目的を改めて考えたり、生物は死んだらどうなるのかな、

などと考えたりすると、時々この問題を思い出すことがある。

また嫌な出来ごとがあったり、恥ずかしい過去を思い出したりした時に、

「人生は夢かもしれない」などと都合よく考えてしまうこともある。

 

 

 

ただ、この問題の正解が科学的に出されていない現在、

これらを信じると自分の行動に影響が出てしまう。

現実逃避にならないよう楽しみたい。

 

一度きりの人生、楽しんだものが勝ちなのか?

現世利益を享受せず、徳を積んだものが現世以外で報われるのか?

宗教の戒律は社会を摩擦なく回すためだけの装置なのか?

 

分からないことばかりであるが、

分からないまま保留しておくという態度もある。

 

不確定であるが自分が真実と思っていること、信じたいと思っていることは、

自分にとって受け入れやすいという意味しか持たないかもしれない。

耳が痛く、かつ疑っていたような説を

聴いてみることによって、開けたりすることもある。

 

確かに、仏教で空観が説かれているように、現実に執着しすぎないことは、

四苦八苦を滅するために必要なのかもしれない。

現実世界には死・痛み・飢えなどという形でプレッシャーが存在するが、

ゲームをしている時のように、

「上手くいかなくてもゲームオーバーで死ぬだけだ」と考えれば

心が軽くなる効果がある。

 

しかし、現実に執着しなくなるということは、

現実社会で生き、現世利益を追求する意欲をなくすことにつながり、

中国仏教ではこれを防ぐために仮観を説き、

現実から遊離することを防ぐような教えもある。

 

そもそも、行動を起こす際に臆病な態度をとるという形で警戒心を働かせることは、

危険を察知して自分を守るために必要な態度であり、

各々が自分の能力や資質に合わせて、成長の過程で培ってきたものである。

だから、科学的に証明できないような説を信じて身軽に動けるようになったところで、

過去に警戒心を身につけた時と同様の失敗をする可能性も少なくない。

 

また、失敗した後の挽回がしづらい社会であるということも

行動力を上げてくれる何かを人が求めるようになっている原因かもしれない。

「人生はゲーム」論は最近、流行っているようなので。

 

失敗の原因を探って、「こうすればよかったのか」という発見をして、

その結果、行動が軽くなるようにしたい。

 

原因があるから結果があるという道理に沿って

生き方の問題を解決していきたいと痛感している。

 

また、「人生はゲームである」論の中には、

人生というゲームを自分たちが作って、自らプレイしていると考える説もある。

 

確かに、自分たちが、セカンドライフのように

この宇宙を作ったのかもしれないけれど、

現代の科学では、造物主が存在するかどうかも分かっていないし、

超自然的な何かを信じることは、それが間違っていた時のリスクがある。

 

 

超自然的なものに対する態度を決定するためには

どのようなことを考慮するべきなのか。

「どうせ真実は分からないのだから考えても仕方がない」とは思わない。

考えたり知るのは楽しい。

信じるのは難しそうだが。