南無妙法蓮華経

 

以前、友人の勧誘を受けて、

日蓮系の某団体にて唱題行という修行法をやっていたことがある。

 

仏典には、釈迦の死後1500年以上経過すると、

もはや釈迦の教えは役に立たないと説かれている(白法隠没)。

末法の時代である現代では「南無妙法蓮華経」という題目を唱えることが、

成仏に至る唯一の方法であると信じている団体であった。

 

南無妙法蓮華経は、仏典の一つである法華経に帰依します、という意味で、

天台大師(智顗)の流れをくむ修行法である。

 

法華経以外にも仏典はあるが、釈迦は方便を用いて説法を行ったとされており、

衆生の理解度に応じて様々な教えがある。

さらに仏教以外の宗教も含めて教えの高低浅深を整理した日蓮によって、

最高の教えとされているのが法華経である。

 

しかし、末法の現代では法華経の読誦、書写などによっては成仏できないため、

法華経の読誦は助行とするに留め、

修行の中心である正行は題目を唱えることであると日蓮の教義では説かれている。

 

やってみて良かったこと

 

同じ題目を何時間も唱えるという単純な修行法であるが、色々な効果があった。

 

だいたい、2時間を経過したぐらいから、お腹のあたりが熱くなってきて、

エネルギーがたぎるような感覚になることが多い。

 

願望を念じながら唱えているのだが、

目標が叶うというような確信が湧いてきて、何かふっと楽になる感じがする。

願望だけでなく、生きていることの感覚が変わってきて、

生きているだけで楽しくなってくるような感覚がある。

 

このような感覚は実際に「仏界」という心の状態として日蓮が説明しているもので、

このような心の状態が唱題行の功徳の一つとされている。

 

日蓮の教えでは、成仏とはこのような心の状態で現世を生きていくことである。

現実に日蓮系の団体も多く、それによって救われていると思っている人がいるのは、

良いことであると思う。

 

現世でどのように生きるのが正しいかについては当然諸説があり、

一人一人が自分の信じるように生きていくしかない。

 

修行法についての疑問点

 

唱題行で心が楽になるのはいいのだが、

これは実際の人生の向上と必ずしも関連しない。

 

私が日蓮の修行法を実践してみたのは、宗教であるにもかかわらず

物資的・世俗的な利益が強調されている気がしたからだ。

具体的な利益があるならやってみよう、

というある意味生臭い理由でやってみたのである。

 

このような目線で考えると、祈る行為で心が楽になるという現象は

必ずしも褒められたものではない。

むしろ、祈りによって心が満たされることで、

現実を改善していこうという意欲は減っていく。

 

「このままではいけない」という切迫感が人を動かすことがあるが、

このような危機感、義務感などが薄れ、

行動しなくとも安心感を得られるようになってしまう。

 

安心感などなくても、自分の現実の行動によって、

思ったような結果が出た時に少しホッとする、

というのが社会的には健全であるとされる。

 

仏教には出家主義的な要素もあるので、

信仰が世俗的なご利益から離れていくことはあり得ることだと思う。

 

仏教を利用しつつ、現世的な成功に結びつけようとする人は、

いいとこ取り、つまみ食いをしているに過ぎず、本当の信仰者ではない。

 

教義についての疑問点

 

他宗に対する批判で知られる、独善的な教えである。

 

もちろん、自分の信念に自信を持つことと、他者を批判することは表裏一体である。

 

特に、超自然的な分野の仮説である宗教においても、

何かを信じるというとは、自然に、

他の教えは間違っているということにならないといけない。

 

様々な教えに寛容であるということは、

結局自分の信仰を信じていないということである。

 

面と向かって、あるいは口に出して批判するかどうかという態度の違いはあるが、

理屈として、宗教的な信念というのは独善的な感情である。

 

これが科学の話であれば、お互いに批判し合うことには建設的な意義がある。

理論の運びや実験の環境などを指摘しあい、

お互いの立場の正しさを主張することは、

科学の発展につながることになると思う。

 

異なる主張の研究者も

「再現可能な物理現象が正しいとする」「公理を元として数学の議論を進める」など、

ある程度の前提を誰もが共有しているため、勝ち負けがはっきりしていると言える。

 

しかし、これが宗教など超自然的な分野の話になると、

何が正しく、何が間違っているかの判断を客観的にできない。

 

人の役に立つことを最高の善であると考える人もいるし、

死後に起こることを、現世の行動で変えていくことを

第一義として行動を選択する人もいる。

 

日蓮の教えを前提としてどの団体が正しいか、ということは議論が可能であるが、

そのような前提がない、宗派間の高低を議論しても平行線となってしまう。

 

正邪を議論するのではなく、

証明できない何かを信じている幸福感を共有しているという点を認めて、

互いに尊重するべきだと思う。この点では似た者同士だ。

 

互いに学ぶべき点があれば素直に取り入れていく方が良いが、

強信者になってしまうと、このような態度を取るわけにいかない。

自分の負けを認めることのように思ってしまう。

 

日蓮の教義で現在問題とされているのは、

他宗への批判が修行の一環であるとされていることだ。

他者に干渉しようとすることは大乗仏教の「菩提心」に由来するため、

上座部仏教の方が今の日本の社会には適合的である。

自分は自分で、人は人ということだ。

 

自分の生き方が正しいと考えるのは悪いことではないが、

それを他人に押し付けることは現代では社会的に良いことと思われていない。

どんなに自分の生き方に誇りを持っていたとしても、

それを相手に強制したり、勧誘して良い場面はほとんどない。

 

例え知人が相談してきたとしても、

「自分はこう思う」程度で留めておくのがふさわしいとされ、

「あなたも私のように生きよう」とはあまり言わない。

会社の上司でさえ、押し付けを避けて、気をつかっている現代である。

 

結論

 

あまりにも生きるのが苦しい人は、何かしらの利益を得ることができるかもしれない。

修行法は実践するが、説かれている教えは必ずしも信じていない、

という立場もとれるかもしれない。

 

そもそも、正しい教えかどうかなどは証明できないため、

人は自分の理想とする生き方に近かったり、

自分が好きになれる物語を信じるものだと思う。

 

宗教は正邪などの物差しで語るべきものではなく、

音楽や服装の好みと同じようなものであると言える。

 

他宗を批判する人には、

「お前が聞いている音楽はダサい。俺の聞いているのを聞くべきだよ」

と言っているのと同じ押し付けがましさがある。

好き嫌いの問題であるので、

このように言われた時点で、好きになったかもしれないものも

嫌いになるのは当然と思う。