幕末期の外国奉行を勤め、ロシア使節のプチャーチンと日露和親条約締結交渉を行った川路聖謨(かわじとしあきら)は、若くして川路家に養子に入った後、能力を発揮し、勘定吟味役、佐渡奉行、奈良奉行、大阪町奉行を経て勘定奉行、外国奉行と昇進していった。
しかし、井伊直弼が大老に就任すると、将軍後嗣問題を巡る一橋派の排除に伴い、西丸留守居役に左遷され、更に翌年の8月27日にはその役も罷免されて隠居差控を命じられる。1863(文久3)に勘定奉行格外国奉行に復帰するが、外国奉行とは名ばかりのような役回りに不満があったらしく、病気を理由として僅か4か月で職を辞する。
辞職後は、中風による半身不随や弟の井上清直の死などが続いて気落ちもあったのだろうか。江戸城開城が決定したことを知らずに、病躯が戦の足手まといになることを恐れて自決したとも云われる。川路聖謨は、1868(慶応4)年、陰腹を斬った上で、ピストルで喉を撃ち抜いて自決した。享年68。忌日の3月15日は新政府軍による江戸総攻撃の予定日だったそうだ。ピストルを用いたのは、半身不随のため、刀ではうまく死ねないと判断したからではないかと云われる。
山田風太郎は、著書「人間臨終図鑑」において、川路をこう書いている。
「彼(川路)は要職を歴任したとはいうものの、別に閣老に列したわけでもなく、かつ生涯柔軟諧謔の性格を失わなかったのに、みごとに幕府と武士道に殉じたのである。徳川武士の最後の花ともいうべき凄絶な死に方であった。」
奈良の人々は、人情の機微に通じた川路を「五泣百笑の奉行」と称して慕った。泣く「五」とは博徒、厳しく監督される役人、裁判期間が短縮化されたために滞在客が減った公事宿(裁判関連の宿泊施設)などを指し、笑う「百」とは百姓を指す。川路が残した日記にも、江戸に帰るときには、隣国の山城国境まで見送る者が大勢集まって、挨拶するために籠ではなく徒歩でいかざるをえなかったほどだと記されている。
川路は、日記や手紙などを多数残しており、吉村昭著「落日の宴」においても、山田風太郎の云う「生涯柔軟諧謔の性格」を見ることができる。1853年にロシアのプチャーチンと交渉する際に、我妻は美人であるがゆえに江戸に留守番させているのが気になって仕方がないなどとプチャーチンに云い、それを聞いたプチャーチンは大喜びしたそうだ。ロシア側は川路の人柄に魅せられて、その肖像画を書こう(写真をとろう)としたが、それを聞いた川路は、ロシア人に「私のような醜男を日本人の顔の代表と思われては困る」と云って彼らを笑わせたと云う。
川路は、「天津神に 背くもよかり 蕨つみ 飢えにし人の 昔思へは」という辞世の句を残しており、横に「徳川家譜代之陪臣頑民斎川路聖謨」と自書している。頑民斎とは、いかにも川路らしいと思う。
「天津神に背く」とは、時勢の流れに逆らうことを意味するのだろうか。「蕨(わらび)つみ 飢えにし人」とは、中国の「伯夷叔斉(はくいしゅくせい)」の故事に由来する。伯夷と叔斉は、身を寄せていた周の文王の死後、息子の武王が後を継ぎ、自身の主君である殷の紂王を討とうとしたので、不忠だと諫めたが聞き入れられなかった。その後、紂王を討ち取った武王が周王朝を建てたが、伯夷と叔斉は主君を討ち取った武王を非難し、周の禄を食むことを恥として、周から離れて山奥に隠遁して蕨などの野草を食べていたが、やがて餓死したと云う。
川路聖謨は、蕨を摘んで、山田風太郎が書いたように幕府と武士道、そして、義に殉じた。川路を想うとき、ワシは、清朝末期の義和団の乱での北京籠城で日本人と日本兵を世界に知らしめた会津出身の元陸軍大将柴五郎を思い起こす。柴が軍を退役して隠棲している中に、大東亜戦争での日本の敗戦を知る。柴は自決に臨んだが、高齢のため死に至たることはできず、しかし、その傷が元で亡くなった。柴五郎も蕨を摘んだのだと思う。
何年か前に、明治天皇と山岡鉄舟翁のことを書いたときに、匿名の人間から「今どき、こんな忠臣がいる訳がない、時代錯誤も甚だしい」と云うコメントをいただいた。まあ、表面上はそのとおりかもしれない。しかし、川路聖謨も柴五郎も、勿論山岡鉄舟も、いやもっともっと大勢の忠臣や英傑、英霊だけでなく、義侠や職人の魂が、ワシだけでなく今日の多くの日本人の心の中に脈々と生き続けているのだよ。それが日本人の血肉であり、背骨なんだ。それがなきゃ日本人として生きていけるかい!
無無明人