234 子母澤寛先生あれやこれや | 無無明録

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書を読むは、酒を飲むがごとし 至味は会意にあり

 座頭市と云えば、勝新太郎やビートたけし、香取慎吾が主演してヒットした映画であるが、原作は、子母澤寛先生の「座頭市物語」と云う小編である。実は、ワシ、この作品の最後の部分に分からないところがあった。


「一説に足利在に住み百姓として静かな天寿を全うしたともいうし、何でも遠く岩代の安積(あさか)山麓猪苗代湖の近くの小高い丘の辺りに住んだともいう。おたねは、湖に映る名月の夜を、座頭の妻として悲しんだかどうか」



 市さんの奥さんのおたねさんは、何故、湖に映る名月の夜を、座頭の妻として悲しむのだろうか。これが全く分からなかった。


答えは、江戸時代の国学者塙保己一(はなわ ほきいち)にあった。保己一は、少年時代に盲目になり、盲人としての修行を積むとともに、学問を志し、盲人の最高位である検校まで進んだ人だが、この保己一の奥さんの詠んだ句に「名月や 座頭の妻の 泣く夜かな」と云うのがある。






「私の亭主は、盲目なのでこの名月を見ることができない。それを思えば涙が流れる」という意味だろうか。保己一は、両手で妻の頬をさわって涙を確認したエピソードがあるそうだ。つまり、子母澤先生が書いていたのは、市さんの妻は、保己一の妻と同じ心情になったであろうかと、叙情たっぷりの余韻を込めた文章だったのだ。これを知ったときは本当に嬉しかったな。





座頭市が杖に仕込んだのは刀だが、勝新太郎がパンツに仕込んだのは大麻だった。パンツには叙情を込める余地はない。


子母澤先生は、云うまでもなく歴史小説家として大成したのだが、最初はやはり失敗があった。子母澤先生が、読売新聞に在籍していた当時、平野國臣について書いたそうだ。ところが、この記事の中で鳥羽伏見の戦いと蛤御門の変を間違えて書いてしまった。


 そこに尾佐竹猛(おさたけ たけき)と云う人物が登場する。尾佐竹は、法律家として大家でもあり、幕末維新史の研究家としても大家だった。尾佐竹は、日ごろから新聞記者がいい加減な歴史の記述をすることに腹を立てていたから、「新旧時代」という冊子に記事を書き、新聞記者を猛然と攻撃した。


「Y新聞に「近藤勇等に生捕りになった古高俊太郎等は京の六角の牢に繋がれたが伏見の戦の夜平野國臣などと一所に三十三名の勤皇方が一束にして斬られてしまった」という記事があった、平野國臣等が鳥羽伏見の戦争迄生きて居たのだとしたら之を釈放して働かせたら憮面白かったろう、また明治政府となっても平野等の拘禁を解かず、おまけに之を斬ったものは官軍らしいから、随分不都合な話だ、これでは余も記者と共に「血涙を禁ぜ」ないが、同時に新聞記者の知識の深いのにも涙が出る」


 

 まさに辛らつな揶揄であるが、子母澤先生は、これに悟るところがあったようだ。尾佐竹に手紙を送り、間違えたのは自分であって、新聞記者ではない。勉強しますから、記者の無知呼ばわりだけは、取り消しを願う、と書いた。


 それから子母澤先生は、新選組の研究を開始し、昭和3年に「新選組始末記」を著した。薩長藩閥政府が正しいとする史観の中では、新選組は暗殺集団でしかなかった。子母澤先生の作品の登場によって、新選組が峻烈

に生き、義に殉じた、その実態が日の光を浴びることになったのだ

 子母澤先生は、誰よりも先に著作を尾佐竹に届けたそうだ。尾佐竹は、「馬鹿でも一生懸命勉強すれば本が書けるか!」傍で聞いているには、甚だ腹の立つ表現で子母澤先生を褒めたと云う。とまあ、この尾佐竹猛と云う人物の存在が、作家子母澤寛先生を誕生させたと云ってもいいようだ。子母澤先生の新選組三部作がこの世になければ、後の新選組に関する数々の小説等の登場はあり得ない。と、云うことは新選組ファンの方々は、尾佐竹猛と云う人物に感謝した方がいいかもね。




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