会沢正志斎『天明2年(1782)-文久3年(1863)』については、本年2月23日付けのこのブログ「會澤正志齋『新論』と『迪彝篇』(1833年・天保4年)藤田東湖序」で記載しているが、彼の書簡について、改めて見てみたい。
彼は、藤田幽谷の青藍舎に入り、1862年幽谷の後を受けて水戸彰考館総裁となる。1829年藩主継嗣問題が紛糾したとき、斉昭を擁立し、斉昭が藩主になった後は藩政改革を輔佐する。1844年斉昭が幕府から咎めを受けた際、藩内で勢力を盛り返した保守・左幕派と対立した。改革派内過激派の激論を抑えつつ斉昭赦免に奔走するが、1845年禁固される。1849年復帰して弘道館教授となり藩政の重鎮となるが、安政の大獄後の再度の藩内の紛糾と抗争の中で死去。代表的著作である『新論』は、後期水戸学に尊王攘夷論的な体系づけを行ったもので尊王攘夷論において聖典視された。尊攘運動が激化した晩年は開国論に転向している。
さて、彼の書簡であるが、相手は戸田銀次郎である。戸田忠太夫の書簡については、以前本ブログ(2月2日付)で紹介しているので参照してほしい。彼は、号を蓬軒、諱は忠敞といったが、通称銀次郎を使っている。水戸藩の家老として、藤田東湖とともに、水戸の両田と言われ、安政の大地震により、両名とも江戸藩邸で圧死している。その後、息子が嗣子となり、戸田銀次郎『文政12年(1829年)- 慶應元年(1865)』を名乗り、幕末期の水戸藩家老を務めている。この手紙の銀次郎は、内容から見ると、戸田忠太夫蓬軒であると思われる。
一筆致啓上候今般 結構被 仰出目出度御儀奉存候 為御明験早速貴礼 被成下忝仕合奉存候右御祝 儀貴答乍○儀相束 如此御座候 恐惶謹言 會澤恒藏 安花押 五月四日 戸田 銀次郎様 |
前半部分は、二人の絆を感じさせる丁寧な礼状であり、強い信頼関係を感じさせる。そして後半部分は、全く私的な内容で、この手紙は、水戸にいる会澤正志斎が江戸にいる戸田銀次郎に、水戸藩内の現状を訴えているのである。まず、しばらく手紙を出していなかったが、やっと暇が出来たので、困ったことを聞いてほしいとして、気候不順で、作物の作柄が良くないことや度々異国船を見かけるようになったことに触れて、「外寇之窺伺ハ如此」と異国船は、日本を侵略してくることに危機感を述べている。
彼が新論を書き、尊皇攘夷を訴える思いがここに見える気がする。また、水戸藩の中で、「武備次第ニ弛み両御番頭なども困窮を鼻に懸け・・・」と嘆いているのである。
尚々不順之時候ニ御座候 愈御安健被成御勤候奉 ○賀候近来打絶御無 音仕候此度ハ少々御閑暇ニ 御座候半心事難尽筆様候 此間中度々異船見懸候由 近々御伝聞ニ候得共外寇 之窺伺ハ如此年々不怠此 方ハ一年一年と怠惰ニ流加之 当年の気候も不順先ツ などと申候へ共作之様子惣而時 候よりハ甚後れ候間実入之 程安心不致武備ハ次第ニ弛 み両御番頭なども困窮を鼻 に懸け横ニ車を押抜候積りと 相見候禄を指上御ふち取ニ成度 などと願出御祭礼も皆引位
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十七日には岡崎宅ニ寄合太田 を始め終日宴飲など申沙汰 諸士の頃よりして如此海防 など如何なる事を致候而も虚 飾のみニなり可申候其外いろいろ 得貴意度候へ共先日擱筆(かくひつ) 仕候縷々(るる)期後便候以上
*難尽筆 あまりにはなはだしく、とても文章に書き表せない。 *外寇 国外から敵が攻めてくること。 *虚飾 実質を伴わない外見だけの飾り。 *擱筆 筆を置いて書くことをやめること。 *縷々こまごまと詳しく述べるさま |
実際、19世紀初めごろから、水戸藩周辺での異国船の出没は次第に増えていき、文政6年(1823年)の頃には頻繁になっていた。1824年5月28日、英国船数隻が水戸藩領常陸大津浜沖に姿を見せ、12人の英国人が上陸し、付家老中山備前守の役人に捕らえられた。しかし、尋問の後、水や野菜などを与えて、船に帰した事があり、会沢正志齋など藤田幽谷門下の学者はこの対応を非難し、1825年に、會澤正志齋は『新論』を書き上げているのである。上の書簡で、彼は、この頃の気持ちを信頼する戸田銀次郎に訴えたかったのだろう。