164 藤尾武吉から曽祖父熊蔵への書簡 | 水戸は天下の魁

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幕末から明治維新へと大変な嵐が吹き荒れた水戸に生きた人々について、資料を少しずつ整理していきたいと思います。

曽祖父熊蔵は、明治期から大正にかけて、本県の小学校を中心に長く校長として勤めていたが、特に大子尋常高等小学校長の勤務が長かった。そこで、交際していた人物について、残されていた書簡を整理する中で、藤尾武吉からの書状があることに気づいた。彼については、「茨城教育家評伝」の中で、以下のような記載がある。

                                                                                                               

硬軟の二法=藤尾武吉

藤尾武吉氏 は明治三十五年四月より、大正三年六月まで、前後十有三年を首席縣視學の椅子に送り、遂に郡長に栄進して多賀郡に赴任す。

□氏は兵庫縣朝來郡中川村の人にして文久二年を以て生れ、關谷東茨城郡長と同齢なり。明治十六年小學教師となり、兵庫縣下の教育にあること前後十有三年、明治三十年名古屋市に書記となり學務課に勤務したるが、僅々十ケ月にして退き、明治三十三年島根縣能義郡視學に抜擢せられ、翌年同縣美濃部郡視學に轉じ、明治三十五本縣視學として來る。

□氏の頭腦は粗笨なるが如くにして緻密なり。不得要領の如く見えて、實は至って要領を得たるものあり。何も彼も腹の中にはチャンと仕舞って置いて、知らぬ振をして居る人なり。

□氏は人を見て軍を講ずる人なり。之れに硬軟二法あり。時と場所によって巧みに之を適用す。単刀直入我反者に向って突入するは其硬法なり。又鋒鋩を更に露はさず、變幻出没、敵の背後を襲うて生捕りにせざれば止まざるを其の軟法とす。

□氏の人物は多方面なり。どんな方向に向けても必ず何等か效を収めざれば終らざる人なり。若し氏に縣知事の椅子を與ふれば、必ず一人前に遣ってのけるべし。多賀郡長としての氏は未だ日淺きを以て、今に於て其手腕を云爲する能はざれども、同郡の教育は氏によって一大刷新を見る事遠からざるべし。(大正三年十月五日)教育家評伝(茨城教成社

 

今回の史料は、藤尾武吉から熊蔵への書状である。久慈郡大子町の住所で手紙が届くのも面白い。

 

拝復、昨今之秋晴爽快を感じ候処、益御清穆奉賀候、扨過日錦地出張之砌ハ、失礼致候のみならず、特別之御待遇を辱ふし感激ニ不堪候、予定之通、其後小里方面、太田附近之視察を了し、本日帰庁致候間、不取敢、御礼旁致候間、不取敢、御礼旁御挨拶申上度、如斯御座候 早々敬具  

   十一月八日 藤尾武吉     内田様 鈴木様 本田様 桜井様  次第不同御海恕被下度候 

彼は、兵庫県の出身であるが、本県の首席視学官となり、大正3年には、多賀郡の郡長となった人物であった。この書状の書かれたのは、大正3年118日であり、熊蔵が校長をしていた大子に、出張してきた熊蔵たちが接待をし、その後、小里(里美)から太田方面を視察して県庁に戻った時の礼状であることが分かる。

なぜ、県首席視学官が久慈郡を視察したのかは、ある冊子から知ることができた。この冊子は、東洋大学の創立者・井上円了が、明治三十九年に病を得て学長の座を辞した後、国民道徳を普及するため修身教会という社会教育の運動を興し「巡講」と称して全国各地を講演して歩き、その記録を『南船北馬集:東洋大学」(刊行は大正四年二月四日、発行所「国民道徳普及会」)』という紀行文にまとめたものである。この第十編に、内田熊蔵や多賀郡長となっていた藤尾武吉が登場する記載があったからである。大正3年11月7日に、大子尋常小学校を会場にして、井上円了の講演会があり、町長の益子彦五郎氏と校長の熊蔵がそれを主催していたのだ。藤尾武吉はその下見のために出張してきたのだろう。

この冊子の中に興味深い記載があるので、一部紹介したい。それは、当時の日立鉱山が、日本でも有数の銅の精錬を行っており、大変な煙害が起こっていたことから、地元の青年関右馬允(太田中学校卒)が交渉の責任者に当たり、創業者久原房之介の理解を得て、156メートルの世界一の大煙突を作った年であった。なお、新田次郎の「ある町の高い煙突」という小説が映画化され、先日日立で先行試写会が行われた。松村克弥監督と主演の井手さんの挨拶もあり、とても感動的であった。本年6月には一般公開される予定であり是非一人でも多くの方に見てもらいたい。s

 上は、煙突工事中の写真と絵はがきに見る大煙突

 

次は井上円了による紀行文の一部(大正3年1113日と18日)。

十三日 晴れ。車行一里にして神崎村〈現在茨城県那珂郡那珂町〉に至る。会場小学校門前茶亭中庭方にて休憩す。発起は村長加藤正義氏、軍人分会長福地安氏、校長園部、寺門両氏なり。本村よりは杉、桧、松等の苗木を産出す。午後、演説をおわりてただちに車を駆ること一里半、石神村〈現在茨城県那珂郡東海村〉に移る。途中、旧浜街道を一過するに、両側に老松の並木、今なお隣立す。この夜、多賀郡日立鉱山煙臭を感ず。近在、煙害の苦情多しという。

 

十八日 風雨。汽車にて助川駅に降車す。これすなわち多賀郡高鈴村〈現在茨城県日立市〉なり。休泊所天地閣はすこぶる壮大の設備を有し、眺望また快闊なり。隣村日立村は鉱山地にして、その事業、年を追いて繁盛をきたし、今は全国一、二の大鉱山となる。目下建設中の煙筒その高さ五百十尺にして、世界第一と称す。ただし煙毒が遠近の樹を枯死せしめ、本郡内に有名なる助川の風景も大いに減殺せらるるに至る。ときに所感一首を賦す。

助川駅外望荒皐、五百尺余烟突高、鉱気漲天樹多死、殺風景使泣吟曹、

(助川駅の外は望めばひろくゆるやかな地形で、五百尺余の煙突が高だかとそびえる。しかし鉱山からのぼる煙毒は天にひろがり、多くの木々を枯死させて、その殺風景であることは吟詠の人々を嘆かせるのである。)

なお、藤尾武吉の事績については、大煙突後の煙害に関して、史料「多賀郡煙害調査書」(日立市郷土博物館所蔵)の中に見る事ができる。この報告書では、大煙突の通煙後も風向きにより被害が出ていたようで、排煙の「来襲」調査を開始した。それまで煙害については、県や郡役所など行政が被害を座視していたが、郡長が藤尾武吉に代わり、公的調査機関が作られたのである。その協議会の会長として、藤尾武吉がとりまとめたものである。