145 水戸藩士加治氏から、渋沢氏への書簡(小瀬弥一衛門所蔵) | 水戸は天下の魁

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幕末から明治維新へと大変な嵐が吹き荒れた水戸に生きた人々について、資料を少しずつ整理していきたいと思います。

 2通目の加治氏の書簡は渋沢先生宛である。これも小瀬弥一衛門家所蔵の古文書類の中にあったもので胤治という署名である。この渋沢先生とは、実業界における明治大正期最大の指導者である渋沢栄一である。渋沢氏に宛てた書簡であるが、その控えとして写し取っておいたものであろう。明治初期には、小瀬弥一衛門清と加治胤治は共に「大属」という水戸県の役人になっており、143号の史料にあった小瀬光清とは、小瀬弥一衛門と同一人物だと思われる。故に、加治氏の文書写が小瀬家の所蔵の中に入っていたのだろう。

 渋沢栄一であることは、文中の「判理局」という役所により確認できた。判理局については、渋沢栄一伝記史料(デジタル版)に次の一文があった。「明治四年辛未九月(1871年) 大蔵省戸籍寮中ノ判理局ヲ独立ノ一局タラシメ、外債ニ関スル審判ヲ掌ラシム。栄一等ノ建議スル所ナリ。六年四月廃止ス。」

 この役所は、外国との債券の問題を解決する役目であったが、わずか一年半でその役目を終えてしまったことが分かる。渋沢栄一『天保111840)年-昭和6(1931)年』と水戸藩の関係は深い。彼は、現在の埼玉県深谷市の豪農の家に生まれ、若くして尊皇攘夷思想に影響を受けて京都に上京し、一橋(徳川)慶喜に仕官している。そして、27歳の時、慶喜の弟徳川昭武に随行し、パリ万国博覧会の派遣団の一員として、欧州諸国の実情に触れることができた。帰国後、彼は大蔵省の役人として外国との問題に当たった後、経済人として日本で最初の銀行である第一国立銀行(現・みずほ銀行)を はじめ、生涯に約500の銀行・会社の設立・育成に関わり、「日本資本主義の父」と言われるようになった。本ブログ140141で述べたように、北海道領有のためアメリカのヲーレス商会から借り入れた資金、五万六千両の返済に苦慮していた水戸県の(経理部門)の大属、小瀬光清や加治胤治が頼ったのが、渋沢栄一であった。

 

一書拝呈仕候追々

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内話申上置候外国金之儀に付、昇殿之上相伺度心組に罷在候処、連日判理局御呼出等にて、遂に御内慮も不伺打過ぎ候・・・迷惑千万・・・毎度々々迷惑恐縮之・・・

 

 

 

十月朔日  胤治

 

渋沢先生

足下

 

  


 この日付の10月1日は明治4年であろうか。北海道開拓の為に借りた資金であるが、明治2年に水戸領となったものの同4年には、幕府の官庁である開拓使の管轄になったのであるから、その借金の返済は幕府により対応してもらいたいと思うのは当然であったろう。水戸藩出の最後の将軍徳川慶喜の家臣となり、水戸藩最後の藩主昭武公の随行であった渋沢栄一は、きっと水戸のために骨を折ってくれと信じたい。