135 水戸藩士 井上甚三郎書簡 | 水戸は天下の魁

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幕末から明治維新へと大変な嵐が吹き荒れた水戸に生きた人々について、資料を少しずつ整理していきたいと思います。

 井上甚三郎は、第15代征夷大将軍徳川慶喜が2歳の頃から、彼の傅役(もりやく)であった。第9代水戸藩主斉昭は、第七男として生まれた七郎麿(後の慶喜)について信頼篤い甚三郎を傅役にして、彼に諸公子教育の要を諭す書、「・・・庶子は嫡子と異なりて、養子に望む家あらば直ちに遣はすべきものなれば、永く我が膝下に教育し難し。されば文武共に怠らしむべからず、若し他家に出し遣る時、柔弱にして文武の心得なくば、我が水戸家の名を辱しむる事あるべし。 水術・弓術・馬術の三科は并に修業せしむべし。中にも馬術は馬場にて乗るのみにては何の用にも立たず、山坂を乗り廻らん為に、度々好文亭の邊、仙波のあたりを廻るべし。湊などへも、手輕に附の者どもと遠馬に出づるやう扱ふべし。・・・」、を送っている。教育掛りには、文学を会沢正志斎、青山延光、武術のうち砲術を福地広延、弓術を佐野四郎右衛門、剣術・水泳を雑賀八次郎、馬術を久木直次郎が担当した。甚三郎は、2歳の頃から慶喜公の傅役として英才教育を施し、彼の人格形成に大きな影響を与えた人物であろう。

 今回の史料は、井上甚三郎から、小瀬鉄太郎と小瀬千之介へ宛てた書簡である。

小瀬鉄太郎様  井上甚三郎

小瀬千之介様

 

御同居御願之通 相済

候間 御達申候 以上

     正月朔日

    ・・・・・・・・・・・・

 

小瀬鉄太郎と千之介は兄弟であろうか。「同居の願いは希望通りになったことを連絡します。」という意味であろう。追伸の部分は、読めないのが残念であり、ご教示頂ければ幸いである。