106 水戸藩の医学と『小児司命丸(高倉家)』その2 | 水戸は天下の魁

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幕末から明治維新へと大変な嵐が吹き荒れた水戸に生きた人々について、資料を少しずつ整理していきたいと思います。

 高倉家の屋敷

高倉家は水戸藩郷士で、代々18か村の大山守(山廻り役人で庄屋の上の位)を務めた家柄であり、将軍家の御典医鈴木暘谷に弟子入りした高倉新五右衛門が修行中に見込まれ、秘伝を授けられたというのが「司命丸」の由来である。一子相伝の家伝薬として秘伝書「司命丸秘法の巻」が伝わっている。

  当初は虚弱児の滋養強壮薬、いわば小児薬として売り出された。のちに成人にも効能ありと強壮健康薬「大人司命丸」も製造して販売を拡大。水戸藩の紹介状付きで藩外にも販路を伸ばし、財を築いたという。

庭には、「司命丸開業百年祭」の碑があり、さらに、屋敷の前には「高倉長八郎・信太郎父子事績頌徳碑」が立っている。昭和45年に建てられ、題字は総理大臣佐藤栄作の「愛国」で、撰文は文学博士肥後和男氏が書いている。「幕末期の水戸藩において藩を二分する勤王佐幕の対立が起こるや、勤王派にくみし金子孫二郎と結び、高橋多一郎、斉藤監物、蓮田市五郎、鯉渕要人らと交わり、多大な援助をして、桜田義挙を達成せしめた。また天狗党の乱でも、多大な金穀を以て支援した。佐幕派(諸生派)が実権を握ると、身の危険を感じ、3年間香川敬三とともに京都に赴き、天下の志士と交わりこれを援助した」ことなどが書かれている。

 手元の史料である「小児司命丸」薬袋に戻るが、この袋には上にある「口上書き」が添えられている。高倉家に多大な利益をもたらした「司命丸」であるが、高価故に、偽物も横行したのであろう。薬と帳面の双方に割り印を押し、双方でしっかりと確認して取引をするように確認する注意書きである。また、天保3年6月の日付であることや、割り印に高倉熈景とあるので、斉昭公の時代の薬袋であると思われる。

 

口上

各様益御機嫌能可被遊御座恐悦至極奉存候

家法司命丸之儀諸国一統日流行仕候段冥

 加至極難有仕合不過之奉存候然ル処近来

 下拙店手代之偽り帳面能書袋仕切判等

 迄同様出来前之指置候御薬代金相請取

 似せ売薬人所々相廻り代料取置候ニ付

 先々御得意様方江名々袋と我等方帳面

 江割印仕指上申候間何卒双方印鑑御見届

 割判御引合之上御取引可被下候尤廻り之

 者帳面等持参仕候共先方様之割印無之

 候節ハ御取引一切御無用ニ奉願候此段為

 念御断申上候以上  天保三辰六月改メ