102 水戸藩と蝦夷(歴史館企画展を見て) | 水戸は天下の魁

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幕末から明治維新へと大変な嵐が吹き荒れた水戸に生きた人々について、資料を少しずつ整理していきたいと思います。

2月4日から3月20日まで、アイヌ工芸品展「イカラカラ-アイヌ刺繍の世界-」が開かれており、余り期待していなかったのだが、華やかで力強いアイヌ刺繍、衣装、装身具など、日本文化とは異なる独自のアイヌ文化に魅了された。また,国宝「伊能忠敬測量図下図」,重要文化財「日本国図(蝦夷)」,重要文化財「聖徳太子絵伝」(那珂市上宮寺)などの展示もあり、常陸,とりわけ水戸藩と蝦夷地の歴史的関係についても思いを馳せることができた。

江戸時代初期から、2代藩主光圀は、蝦夷地探検を目的に船快風丸を建造して、数度探検を行っている。幕末期には、斉昭は、蝦夷に大変な興味を持った。つくばみらい市(旧伊奈町)出身の間宮林蔵(1775-1844)は,寛政12年(1800)に蝦夷地御用雇となり,享和3年(1803)に蝦夷地を測量,文化5年(1808)にはカラフト島に派遣されて間宮海峡を確認したことで知られる。また、北方探検家で知られる木村謙次(1752年-1811年)は、常陸太田市(旧水府村)出身で、原南陽に師事して医を業としたが,有り余る才能は他の分野にも及び,しみこん製造を水府地方の一大特産物とするなど殖産興業にも力を尽くした。また、1798年(寛政10年)幕府の命によりエトロフ(旧樺太)探検に同行し,「大日本恵登呂府」の木碑を建立した。なお,豊田天功の父信卿は木村に師事している。

蝦夷に関して、斉昭は間宮林蔵や木村謙次から直接情報を得ていたという。天保10年(1839年)、彼は「北方未来考」を立稿、幕府に蝦夷地を「北海道」と名付け、その中を区画して数国を設置すべきと法案を提出している。松前藩に任せてはおけないという危惧、蝦夷を開拓して水戸領とし、藩財政に資するなどの強い気持ちであった。

手元にある史料の一つは、天明6年に出版された林子平著『三国通覧図説』「海防思想の普及に貢献したが、のち禁書・絶版となった」の付図の1枚「蝦夷国全図」木版 色刷 52×95cmである。天明5年(1785年)の制作である。

彼の憂いは外国の脅威であり、海防を持論としていたことから、積極的に旅をして、様々な人々と交わり、このような絵図を書いたのだろう。今ロシアとの間で、北方四島の帰属問題が大きな課題となっているが、此の地図では、国後、択捉、樺太の日本の領土と明記してある。下の全図の赤く塗られた地域がロシア領である。実測図ではなく、想像で書いているため、今の北海道とは全く異なる地図ではあるが、かなり正確な地名を書き込んでいる。

彼は、ロシアの南下政策に危機感を抱き、海防の充実を唱えるために『海国兵談』も刊行しようとしたが、発禁処分を受けている。林子平は、高山彦九郎・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の一人として、今にその名を残している。幕府の中枢にあって、斉昭も彼の思いを受け止めていたと思う。