94 水戸藩の医学と本間玄調(棗軒) | 水戸は天下の魁

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幕末から明治維新へと大変な嵐が吹き荒れた水戸に生きた人々について、資料を少しずつ整理していきたいと思います。

本間 玄調『文化元年(1804年)- 明治5年(1872年)』は、幕末の水戸藩医である。通称は資章、字は和卿、号は棗軒。のちに救を名乗る。水戸藩の医者として最も有名な人物であろう。彼は、常陸国小川村(現在の茨城県小美玉市)に生まれた。父本間玄有と祖父本間玄琢は稽医館の創始者で、養父道偉も医者であり、名医一族の中で育った。17歳のとき、原南陽に入門し、その後、杉田立卿、華岡青洲、シーボルトなどに師事した。漢洋折衷の学識と医術で稽医館の晩年を飾り、水戸弘道館医学館教授となってからは、講義・治療・著述などに活躍し、水戸藩医政の第一線を担った。多くの人命を救ったことから徳川斉昭より救という名を賜った。華岡青洲の門下としてはもっとも優れた外科医であったとされ、医術についての著作を残しているが、それにおいて青洲から教わった秘術を無断で公開したとして、破門されている。(ウキペデュア参照)

彼については、脱疽の患者の足を膝下から切断して治癒させたとか痔の手術に長けていて自らの痔も友人の医師を指導しながら行わせたこと、斉昭公より、救という名を賜り、牛種痘は本間と松延に任せよとの指示を受けたなど様々なエピソードが有名である。

手元にある玄調に関する史料を見てみよう。藩主から大変な信頼を受けていた本間棗軒であったが、具体的な理由が定かではないが、不調法ということで藩から遠慮を申しつけられたことがあった。その譴責に対し、弟子の吉村道健と小林元茂が連名で棗軒の救済を嘆願した手紙である。

「我々共師匠本間救儀不調法の儀有之遠慮小普請組え仰せ付け置かれ候所救儀先年弘く療治仕り尚又慎み中乍ら御姫様御療治仰せ付けられ有難き仕合わせに存じ奉り候・・・・」

と始まり婉曲に寛容の措置を嘆願する内容である。水戸藩の重臣に棗軒の名誉回復のために嘆願した書簡の控えであろう。当時、水戸藩では、守旧派(門閥派)と改革派(天狗派)の対立が興っており、藩主の失脚処分とともに、斉昭の信頼が厚かった者への処分も下され、藩内人事も一変する事態が起こっていた。棗軒に対して「不調法」の処分もそのような理由からであったのだろう。

また、次の史料は、藩から両名の嘆願書への返答である。差出人は、藩の重臣の藤田主書からで、嘆願書が功を奏したのか、「心得違い」ということで、譴責が晴れたことを証明する内容になっている。

その他、本間救と小林元茂の師弟関係は親密で、いくつも書簡のやりとりをしている。これから、内容を検討していきたい。