74 文久の軍制改革 | 水戸は天下の魁

水戸は天下の魁

幕末から明治維新へと大変な嵐が吹き荒れた水戸に生きた人々について、資料を少しずつ整理していきたいと思います。

桜田門外の変で直弼が暗殺された後の文久2年(1862年)に、薩摩藩の強い要求を受け入れ、幕府は人事・職制・諸制度の改革を行った。そして、若年の将軍徳川家茂を補佐する役として一橋家当主・一橋慶喜が将軍後見職に任命されたのである。その改革の一環として本格的な西洋式軍隊である「陸軍」の創設がされた。フランス式の軍制を参考に、陸軍奉行を長として、その下に歩兵奉行3人と騎兵奉行を置き、歩兵・騎兵・砲兵の三兵編制を導入した。うち歩兵隊は、旗本から禄高に応じて供出させた兵賦(へいふ)と称する人員から構成され、同年12月には、幕府は大量に必要になる兵員確保の為、旗本に対して兵賦令を布告した。

翌文久3年に、攘夷実行を望む朝廷の要請により将軍家茂の上洛が決まると、慶喜は将軍の名代として、先行上洛して、朝廷との事前交渉に当たることになった。御三卿は大名とは違い、将軍の身内としての位置付けで、領地や家臣団を持っていなかったため、慶喜公の護衛のために水戸藩改革派の藩士が同行したのが、後の本圀寺勢である。

今回の史料は、文久3年の慶喜公の上洛に際し、兵賦の部隊を招集するという内容である。

 

 

 

此度従 公辺御軍役之兵賦拾五人御知

行所之内ニ而差出候様被仰渡有之間左

之通申渡候

 一 右兵賦ハ銃隊二御組立御陣営被差置候事 

 一 兵賦年齢ハ十七歳より四拾五歳迠御用

可相成候間壮健之者相撰差出候尤壱人五ケ

...

兵賦の年齢は17歳から45歳までの壮健の者とされ、次のページには、年季は5年、丈高く強壮の者を選出すること、功績次第では正式に幕臣に登用されること、諸道具や衣類等は公儀より貸し渡すこと、給料は1年間一人につき六両位になる等などが詳しく書かれ、名前や年齢や生国など巨細を認めて村役人に差し渡し、江戸に来る事なども記されている。

 次の写真のぺージには、大阪湾兵庫沖にフランス国軍船が数艘来ることや、一橋様御上洛する際の付き添いの者たちについても詳しく述べられている。総人数は千何百人など、興味深い内容である。

 このようにして集められた陸軍兵士は、いわば戦いの素人ばかりであったのだろう。彼らは長州征伐や天狗党の乱などにも実戦投入されたが、経験不足や意識の低さから、人数の割に対した活躍はできなかったようである。