58 熊蔵と豊田芙雄(子) | 水戸は天下の魁

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幕末から明治維新へと大変な嵐が吹き荒れた水戸に生きた人々について、資料を少しずつ整理していきたいと思います。

 曾祖父の熊蔵については、茨城縣教育家略伝(明治27年発行)や茨城教育家詳伝(大正3年発行)に詳しく述べられていた。その中で、「和歌の名士にして書画の鑑識に富み・・・」とある。母から聞いた熊蔵は、晩年、部屋にこもって、和歌の創作に明け暮れていたと語っていた。熊蔵の書いた短冊も数多く残っており、その中には、豊田先生の米寿を祝う和歌の短冊があった。同じような和歌を書き直したものも4枚も残っていた。豊田先生とは、大成女子校の校長を勤めた豊田芙雄のことであろう。何度も下書きをして、一番上手なものを送ったと思われる。そして、芙雄子の短冊もあった。

豊田芙雄(子)は弘化二年生まれなので、曾祖父の19才年上である。女子高等教育の先駆者、日本の幼稚園教育の開拓者などともいわれ、日本の女子教育界発展に大きく貢献したほか、日本の保母第1号とされている。平成24年には、大洗町幕末と明治の博物館において、「日本人初の幼稚園保姆 豊田芙雄 ~幼児・女子教育に捧げた97年の生涯~」というすばらしい企画展覧会が開かれた。下がその和歌の写真である。


熊蔵は、同じ教育に携わった先輩として、また水戸学を信奉する者として、豊田芙雄を苦難の人生に尊敬していたのだろう。熊蔵の、「88歳は、まだ老いの旅路の麓である。千年の峰にこれから登る身なのだから」という気持ちを述べている。そして、芙雄子の歌は、「待っている人が、来てくれると思っているのだが、今日も会えないことが悲しく思う」という意味であろうか。驚くのは、死ぬ前年の96歳という高齢にもかかわらず、しっかりと書かれた筆跡である。熊蔵は、退職後に、水戸市に土地を買い求め、水戸商業高校や水戸農業高校でも、講師として、国語を教えていた。また、大日本歌道奨励会の会員として、同好の士と、和歌の創作を楽しんでいた。

豊田芙雄は、水戸藩郡奉行の桑原信毅(幾太郎)の四女として、水戸に生まれた。母は藤田幽谷の次女で、藤田東湖の妹の雪子である。母親の名にちなんで、冬=芙雄と名付けられたのだろう。18歳の時、彰考館総裁豊田天功の長男小太郎(香窓)と結婚したが、その数年後の慶応二(1866)年、夫小太郎は国事に奔走中、刺客によって京都で非業の死を遂げている。国事多難な幕末、維新の夜明け前に、その渦中の人として芙雄は夫の意志を継いで学問に精を出し、明治8年に、東京女子師範学校の教師、そして翌年開校した同校附属幼稚園で日本で最初の保母となったのである。

母親の思い出話の中で、水戸駅にヘレンケラーが来た時、出迎えて握手をしたと語っていたことがあったが、豊田芙雄も茨城県の代表として彼女を出迎えていたのだ。豊田芙雄の父、桑原幾太郎と豊田天功の書についても、今後紹介して見たい。




待ちきたる人や来ますと思いしに

 かれたに見えぬ今日ぞ悲しき

          九十六才 芙雄子



豊田先生の米寿を古登保(ことほ)にまつりて

  八十八は老いの山路のふもとなり

  知登勢(ちとせ)の嶺に登る身なれば

               熊蔵