スピリチュアル•エゴ | 振動数の調律

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スピリチュアル・エゴ

スピリチュアルな世界の知識を得ることによって、ほとんど、必ずといっていいほどやって来る、乗り越えなければならない段階というものが幾つかあります。

その中でも最大のものが、スピリチュアル・エゴといったものです。

これは、スピリチュアルな知識を得たことにより、誰か他の人よりも、優越感を持ったり、自慢したり、自分は他の誰かよりも抜きん出て偉いんだ、特別なんだ、という傲慢さが表出してきます。

このような段階で観られる傾向としましては、自分以外の誰かを攻撃したり、批判したり、自分を特別な存在として正当化させるために、相手をことごとく蔑み、おとしめます。

これらのことが表出する代表的な例として、新興宗教の教祖が挙げられます。

私に神が降りた、私は神から啓示を受けていると、自分は選ばれた特別な存在なのだと間違った方向に錯覚を起こしてしまい、挙句の果てに、事ある毎に、恐怖や不安で相手を釣り、如何わしい物品を購入させて、金品を巻き上げたり、さらにはそのお金で、立派な御殿を建てたりするような方々です。

このような方々も、風前の灯火であると云えます。
この世界での既存の全宗教は、もうすぐ終焉を迎えます。

イエス・キリストさんや、釈迦さん、聖母マリアさんのようないわゆるアセンデッド・マスターや、スピリチュアルな師たちは、スピリチュアルな知識を知れば知るほどにおいて、謙虚であらねばならないと言っています。

マスターと呼ばれる存在も、やがては神と呼ばれる存在となり、神と呼ばれる存在に昇りつめたとしても、さらに謙虚であるということです。

キリスト意識も、ヒンドゥーの神々も、エジプトの神々も、決して自分自身が特別な存在で優越感に浸る、などという意識は持ち合わせていません。

彼ら彼女らは、わたしを崇めよだとか、わたしを褒め称えよ、などということは決して言いません。

イエス・キリストさんに至っては、わたしをマスターと呼ばないでください、とまで言うほどです。

多くの地球人類が、神々を崇め称えるのに対して、神々のほうでは、わたしたちを隣人のように、友人のように接してくださいと伝えてきます。

これが、上に立つもの、天上界の方々の姿なのです。

その神々たちの姿を見習うのでしたら、私たちがこの世界に留まっていながら受け取る知識など、どれほどの知識だということでしょうか。

3次元領域にいながらにして受け取れる知識に比べましたら、多次元領域の情報など膨大過ぎて、それをすべて受け取ろうとしましたら、それこそ頭がパンクして精神異常をきたすでしょう。

そもそも、この世界にいながら、アカシック・レコード(宇宙の図書館)の情報量を100%正確に受け取ることは、まず、不可能に限りなく近いとマスターたちも言っています。

マスターたちでさえ、宇宙根源からの情報を、100%正確に受け取ることは困難であるということです。

そのことを想えば、私たちは、神々やマスターたちに、敬意の念を込めて、見習うべきでありましょう。


ことわざにも、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」とあります。君子は学識や徳行が深まるほど、謙虚になるものだという意味です。

このようなスピリチュアル・エゴを乗り越えることによって、私たちは、マスターへの道を歩むことになります。