遠い昔のことだけど

 

まじにやってみたかった職業がいくつかある。

 

プロのカメラマン・・・いわゆる戦場カメラマンというやつ。

当然両親は大反対。で、大学生のころ、山岳部に入部したいと言ったら、これも猛反対。当然だよね。

 

次に、ジャーナリスト。これは、バイトだったけど、大学の先輩が読売新聞東京本社の出版局次長をされていたのですぐ採用されて、景品係を任された。

 

当時は巨人の長嶋監督が、最下位という不名誉な年で、まあ実際エレベーターで正面のエレベータに乗ろうとしたら長嶋監督が乗り込んできて、おいらあわてて降りた。社員、バイトなどは社員用の、大手町の本社ビル左のエレベーターを利用しなくちゃいけないきまりがあった。もう、胸ドキドキものよ。なぜか、顔馴染みの警備員さん二人が教えてくれなかった。

 

毎朝、社員証を見せて出社するんだけど、いつも遅刻ぎりぎり。警備員さんとは顔馴染みになっていたから、社員証出す余裕もなく「おはようございます」のひとことで正面のエレベーターにズルして乗ろうとしたんだよね。がら空きだし、遅刻ギリギリ。

 

読売新聞社ではタイムカードなどなし。

 

出版局の記者さんたちは、朝はほとんどいない。編集部ガラガラ。8階のフロア―の右側が編集部、左側が宣伝部と販売部。

 

週刊読売の景品係で、バイトさんは5人ほど。

 

当時は「最後のSL」の特集記事で盛り上がっていたな。

 

二年ほどやったけど、最初は景品係で、2万枚の「SLパーツ応募」ハガキにてんてこまい。全部仕分けして、9月の「交通博物館で当選者さんにパーツ贈呈」イベント準備におおわらわ。

 

まあ、SLのD51のプレートやら当時はまだ国鉄だったから、プレゼントの管理が大変だった。

 

今じゃ、それらは何百万円もするらしい。

 

で、プレゼント係として週刊読売の抽選場面として、週刊読売の最後のページにおいらともうひとりの同じ大学(明治大)の女の子とふたりが掲載された。その週刊読売もいただいたけど、どこにいったか紛失。

 

国立国会図書館などで保存されているらしいけど、今更見る気もしない。

 

その週刊読売も何十年か前に廃刊。まじめな記事ばかりだったからな。

 

次に、週刊誌の市場調査係にされて、地下鉄路線の構内売店の売り上げ状況の調査。それと、著名作家さんの出版本の「つかみ本」を持って作家さんの自宅訪問。「つかみ本」とは業界用語で表紙だけ印刷、中味は全くの白紙。それを持って遠藤周作先生自宅とか源田実先生尋ねて、自衛隊市ヶ谷駐屯地まで訪問したり。

 

遠藤先生はこりあん先生、昔コーヒーのコマーシャルされていた。

 

源田先生は国会議員だったけど、あの真珠湾攻撃の攻撃隊長さん。米国映画「トラ・トラ・トラ」で名優田村高広(たかひろの字が違っているかも)さんが演じていた。

 

どこに行くにも、讀賣新聞の腕章つけなくちゃいけんから、嬉しいのと恥ずかしいのと。

 

それと、地下鉄は記者腕章つけちゃいけないから、かわりに地下鉄どこでも乗り放題のパスをいただいて、真面目にやっていたら支店長さんにバレて。当時は市場調査してはいけない約束がキオスク?と各出版社の間で取り決めされていた。

手帳に売れた部数をメモしていた所を「御用」と捕まって、讀賣とキオスクとで大モメになった。

 

結局、市場調査員からはずれて、広告部の電車に吊るされている「中刷り広告」の部署やら過去の出版物の管理やら、色々やりました。

 

まあそれでイヤになって、将来読売新聞社社員へのお誘いも断って、結局大学卒業して色々あったけど、松下電器の社員へ。

 

まあ、今いただいている年金も大半が松下・現パナソニックさんのもの。

 

やっぱり、地味な仕事の方がむいてたということかな。

 

でも、5階と9階だったか、2つある社員食堂ではお寿司などめちゃ安かったからな。

団伊玖磨さんやら五木ひろしさんやら萩本欽一さんやら色々な有名人に会えてよかった。

 

あと、次長さんに紹介された、初めての「エベレスト・女性だけの登頂」で、自分が山岳部に入部できんかったから、田部井さんとお話しできたことは夢のよう。

 

 

 

あーあ懐かしいな

 

 

パナソニック時代のおいら

 

前列一番左ー信州安曇野にて

 

懐かしい