新語、造語がはやる日本。きちんとした日本語を理解せずして新しい言葉を作る人、飛びつく人たち。

もともとある、自分たちの言語を知らずして使うなといいたい。

で、私自身が56年以上参考にしてきた(株)創文さんの基礎表記法を用いて正しい日本語を伝えていきたいと思う。

編者は佐藤 栄氏である。

 

正しい日本語の表記は日本人が作ったものではない。

よく司馬遼太郎さんを引き合いに出すが、英国人のB・H・チェンバレン氏が日本の国語学を確立してくれたのである。「街道を行く 1」ですぐに登場される。

 

明治6年に来日し、東京帝国大学で言語学を教えておられた。

 

言葉と文字

 

思っていることを正確に相手に伝達する手段として、社会共通の約束により成立した習慣が「ことば」であり「文字」である。したがって、正しい文字の使用と、正確適切なことばつかいとによってのみ、はじめて相手に誤解なく自己の意志を伝達できるのである。古今東西における文豪といわれる人々も、このためには種々苦労もし努力もしている。

 

閑さや岩にしみいる蝉の声

 

淋・寂しい、ではない。

これは「奥の細道」にでている名句であるが、ばく然たる直感によってこの句が成ったのではない。

 

山寺や石にしみつく蝉の声(書留)

 

初案に上の句をものし、静閑の地、立石寺の「静寂」を述べようとしたが満足できなかった。それで

 

さびしさや岩にしみ込む蝉のこゑ(初蝉)

 

とした。初案の「岩にしみつく」では、透徹した閑けさが停止してしまうし、再案の「しみ込む」では、強さが足りない。こうした苦心再考のすえ定まったのが「閑さや・・・」の句である。われわれはこの句をみて、絶妙の霊境にあって、自然の生命にひたすら耳をすましている、けいけんな人間、芭蕉の姿を想像することができるのである。

さすが文豪といわれるほどあって、かれが表現に際して、まず表出すべき言葉、すなわち語彙の選択に、どんなに苦心したかがわかる。そして、この場合、かれは唯一最適のことばを選んで使用したからこそ、後世に残る名句をものしたのである。われわれはこれを推敲という。推敲によって唯一最適のことばを使用してこそ、はじめて名文といわれるものが残されるのである。

 

次回は、漢字について