ブログを書くにあたって、いつも注意しているのが歴史的事実、というやつである。

いつも参考文献を、用意して、色々な著者さんの意見などを参考にして、できるだけ真実を書こうと思っています。

現代はパソコンという便利なツールがあるおかげで、色々な観点から物事を解釈することができる。

 

有難いことです。

 

今回は、中公新書「幕末の志士」高木俊輔氏、中公文庫「江戸から東京へ」矢田挿雲氏、「街道をゆく」シリーズの司馬遼太郎氏、「歴史がわかれば世界がわかる」自由国民社さん教科書版他「歴史読本」新人物往来社さんの本多数を参考に書いています。

 

山岡鉄舟

 

1836年(天保七年)6月10日、江戸の本所大川端四軒屋敷の官邸に生まれる。

御蔵奉行である小野浅右衛門を父に生まれ石高600石であればまあまあの家庭。現在であれば年収1000万以上ではないかと思う。

4番目として生まれたか、私が調べた時点では何とも言えない。

4,5歳で「北辰一刀流」を学びはじめ(現代の満年齢ではないのでそう記す)

1854年 19歳の時に山岡静山に剣術を学ぶ。

1855年 20歳の時に師静山死去。妹の英子(ふさこ)の婿となる。

その後、千葉周作の元で剣の修行をする。

幼少のころから、父浅右衛門に従って飛騨で育ち、10代後半には父の転勤にともない再び江戸に戻っていたが、剣・槍術などの名人になっており、千葉周作の真影流を卒業してから、自身で無刀流なる流派をひらく。

 

山岡鉄舟自身が幕府方でありながら、のちに新選組隊士となる清川八郎と交流し、どちらかというと尊王攘夷の思想を持っていた。清川八郎はのちに京で新選組を離れ、別派を作り、新選組に暗殺される。

 

大政奉還やら鳥羽伏見の戦いがあり、徳川慶喜は大坂城をこっそり抜け出し、江戸城に戻ってきたのは誰でも知っていることである。

その慶喜さんから直接の命をうけ、東海道を下ってくる有栖川宮総督、西郷参謀などが薩摩、長州などの諸藩の兵を引き連れ江戸での決戦に挑もうとしていたので、あくまで恭順を貫くことを奏上せよと命じたのである。

 

山岡鉄舟は慶喜にむかって「あなたは恭順とみせかけて、何かやろうというんでしょ」と無遠慮な質問を発した。

「いや、そうではない、神明に誓って恭順するのじゃ」

その真剣さに鉄舟は幕府の終焉を見た。うなずく鉄舟、そのまま軍事総裁、勝安房のもとにむかう。

「将軍の誠意を、官軍へ申達してくる」と勝に言う。勝海舟はかねてから山岡鉄舟が粗暴でいかん、という評を耳にしていたから、逡巡した。

鉄舟は「官軍だって、無暗に人を殺しはしまい」と言うと、薩摩藩士、益満新八郎を連れて、六郷川を渡り、官軍の先鋒が銃剣を組んで左右に堵列せる中を「朝敵、徳川慶喜の家来、山岡鉄太郎まかり通る」

と威張って通り抜け、小田原で西郷と会見した。

西郷は鉄舟から慶喜の真意を聞き取り、いわゆる五カ条の講和条件を示した。

一、城明け渡し

二、城兵を向島へ移すこと

三、兵器を渡すこと

四、軍艦を渡すこと

五、慶喜を備前に預けること

鉄舟は、五条目を聞き「そんなことが出来るものか。仮に君のほうの島津公が、そんな目にあったら、君たちは黙ってみてられるかい」

と舌を巻いて逆襲したので、西郷も、もっともに思い、慶喜の一身は、責任を持って保護する旨を誓った。

「さあ俺は、官軍の前営破りだ。縄をかけたまえ」

と言うのを、西郷は笑いながら

「まあ一杯飲みましょう」

と、献酬数回の後、陣営通行符を与えて去らせた。その結果、西郷と勝安房との会見となり江戸を戦禍の灰塵に帰すことは避けられた。上野の山だけが燃えた。

西郷が勝との会見は、殺気満々たる幕臣の中へただ一人来ては命が危ない、と思い、鉄舟は「西郷を殺しちゃ、俺の男が立たぬ」と往復ともにブルドックのような顔をして、西郷を守護した。1868年 鉄舟31歳であった。

 

続きは明日書きます。