西洋、アジア文化は、特に中国のもたらしてくれた文字からはじまり、様々な文化により発展していったことは、学校教育でほとんどの人が学んできたことと思う。

 

今回は、近代文化をもたらしてくれた外人さんを紹介していきたいと思う。

 

日々の生活にかかせない天気。その予報はどのような人によってもたらせられたのだろうか?

 

学校教育ではあまり取り上げられない知識かもしれない。

 

 

エルヴィン・クニッピング ドイツ人である。

 

彼がもたらしてくれたものは、気象予報につながる天気図である。いまや当たり前のように気象予報が出されるが、今日現在、台風2号ー超強烈な暴風をともなって北上している。このような、現代では気象予測というものが、いかに大切なものか、誰もが知っている。

 

 

 

明治4年、一等航海士として汽船クーリエ号に乗船して来日。航海学校に学び、仕事で来日したはいいが、船が転売されて彼は帰国できなくなってしまった。新政府ができてまだ4年、新しい文明を取り入れたい明治政府が、ドイツとの約束ごとだったのか、船を購入ということになり、クニッピングはそのまま上陸して日本に職を求めねばならなくなった。

 

そこで就職先を探していて、開成学校の教員という職を得られた。今の東京大学である。

 

数学やドイツ語などを教えていたが、もともと船乗りであったので気象に造詣(ぞうけい)が深く、官舎で学生と気象観測を行っていた。

 

明治14年(1881年)に明治政府に対して「暴風警報を行う必要がある」と意見を述べたところ、これが採用され、翌年の15年に内務省地理局暴風雨取調掛に採用されるのである。

 

それからクニッピングは、日本各地に測候所を配置し、観測結果を東京に打電するようシステムを構築した。だが当時の電信料が高すぎたため、苦肉の策として字数を減らすためのコード化なども開発している。(当時は電報が中心)

システムが動き始めたのが、明治16年、2月16日のこと。そしてこのデーターを基にして天気図の作成がはじまり、2週間後の3月1日から、毎日天気図が作成され、印刷配布されるようになった。

二人の画家が版下を描き、石版七色刷りによる、見た目もきれいな見事なできばえのものであった。

 

そして天気予報が始まったのは翌明治17年6月1日より。

 

だが、配布先は宮中、官庁、新聞社だけであり、庶民は傘を持つ和服婦人の姿だとか、蓑を羽織った男などの絵に雨、晴れなど、明治26年から時事新報が予報文と絵をつけて報道した。

 

実際に、新聞に天気図が掲載されるようになったのは大正13年からである。

 

クニッピングはその後、ドイツから婚約者を呼び寄せ結婚。5人の子供の親となり、1891年(明治24年)に帰国。東京天文台の職員を辞して。

 

現在の気象庁の役割は大変である。

 

天気ばかりでなく地震や噴火ーあらゆる自然災害に対応されている。

 

一市民として、ただただ感謝あるのみである。

 

クニッピングさんありがとう。

 

(=^・^=) ブヒだす