画像


報道カメラマン、村本博之氏の生前の写真である。

彼は、政情不安定なタイにて、誰が撃ったか分らぬ1発の銃弾で、命を落とした。ご冥福をお祈りする。

私が高校生のころ、1枚の写真と出合った。題名「戦場からの逃避」



画像


余りにも有名な写真。

ベトナム戦争での母子の川を渡河しての、戦場からの非難。

のちに、かなりたって、この写真を撮った人物が日本人であることを知る。

沢田教一氏。彼も戦場に散った。

画像



画像

彼のパスポート。



画像


戦場に立つ沢田氏。


画像


数々の戦場写真。あまりにも残酷な写真は割除させていただいた。

のちに、報道写真の栄誉ある最高の賞、ピュリッツア賞を受賞したことを知る。あの「戦場からの避難」で。

それから、彼の写真集を買うのだが、時代背景もあって、私自身が戦場カメラマンになる夢をもっていたが、病身の母のいる私には、ただの淡い夢に過ぎなくなった。

つい先日、元毎日新聞外信部長であった大森実氏が永眠された。
3月25日。遠く米国に居を移された大森氏は、88歳の生涯を閉じられた。
1965年に日本人記者としてベトナムのハノイに、激しい米軍の爆撃下、本社に記事を送り続けた。
奇跡的に天寿をまっとうされた、数少ない歴史の証言者であった。
「泥と炎のインドシナ」レポートを、戦場の実態を報じて、高い評価を得ておられたが、当時のライシャワー大使との軋轢もあって退職。以後自ら事務所を開設。
その後、親日家でもあったライシャワー氏は、後悔の念を述べる。
そのご遺体は、富士山の見える場所に埋葬されるそうである。もう埋葬されたかそこまでは分らない。

ご冥福をお祈りいたします。「石に書く」という本を所蔵しているが、まだほとんど読んでいない。

で、沢田教一氏はベトナムから、カンボジアにと報道マンとしての使命感からか、行く。

画像



受賞後の写真か。

画像


青木冨貴子氏の書かれた「ライカでグッドバイ」も、所蔵していて、こちらは何度も読ませていただいた。

悪名高い、クメール・ルージュの兵士たちに、スクーンでの取材帰路、彼等に遭遇して一晩の滞在を命じられたが断固として拒否。そこで一夜を過ごせば命がないことを知っていたから。そこで沢田氏は、強引に彼等の命令を拒否して、背を向けたそうである。本人は「やはり怖かった」と他の記者たちに言っている。

UPIの新任支局長、フランク・フロッシュ。彼と共に沢田氏は運命を共にする。
沢田氏より7歳下の彼は、アトランタでUPIに採用された。記者としては新米だったが、陸軍大尉としてベトナムで戦闘の経験が豊富だったからである。
スタッフには、沢田氏と長年行動を共にしてきた、美貌の女性記者ケイト・ウェッブ・それにカンボジアスタッフ数名。
ロバート・ミラー記者は移動していた。ミラー記者と沢田氏はクメール・ルージュに一度捕われていた。

だが、その後日本人記者・カメラマンクルー3名をふくむ、米国テレビのNBC和久義彦、CBSの坂井幸二郎、石井誠晴、全部で8名が、沢田氏らがつかまった場所の近くで、捕えられ殺害されている。
運がよかったとしかいいようがない。

運命の1970年10月29日の朝に、同僚のケイト記者に二人の遺体が発見される。

戻るはずの5時ごろまでに戻ってこない二人の身に、何かあったと直感したのだろう。28日に取材に出発して、翌朝、彼女は落胆の色を隠せず、プノンペン支局のローカルマネージャー、クウ・キエンと共に車の運転をカンボジア運転手に依頼して、二人の捜索に向かった。
二人の遺体は、ブルーの日産サニーと共にみつかった。
車は20発以上の弾痕。二人とも胸と背中を撃ち抜かれていた。
沢田氏の顔は片面がつぶれていて、鈍器のようなもので体中アザだらけのうえ、フランクは沢田氏以上に蜂の巣にされていた。『文藝春秋:ライカでグッドバイ』より。

前に「菜の花畑の笑顔と銃弾」というNHKさんのドキュメント番組を見て、伊藤和也さんの生涯を別ブログに書いた。

2月に書いたが、和也さんはその前年の2008年に殺害されてしまった。

画像


「おくりびと」と戦場に散った青年、というタイトルだったと思う。

ある意味、報道記者やカメラマンは、死を覚悟して行く。

伊藤君の場合、荒野の開拓であり、人種を超えた援助活動である。人々の直接の生活援助指導。

まさか、アフガンに散るとは思ってもいなかったであろう。

すべてのジャーナリストと、援助活動で命を落とされた方々の冥福を祈ります。

そして、今も命をかけて、他国にあらゆる援助を捧げている、お医者さん看護師さん、農業、土木、技術活動されておられる方々の無事を祈ります。