ペットショップというシステムは、世界でも珍しく、インバウンドの観光客からすると、歪なものなのだ。

猫や犬といった動物は家族として愛着がわくものであり、知人を介して、子猫や子犬を譲ってもらうのが通常らしい。当たり前だが、養子を育てるのも、金で仲介されることはない。仲介されたとしたら、それは人身売買にあたる。

考えてみれば当たり前のことで、金銭で売買できる愛は、愛欲である。いわば、性欲と直結している。売春を想像すれば、その通りだ。お金を払って、サービスを提供してもらうのだ。そこに対価が発生する。愛情の有無など、どうでもいい。

家族という愛着を前提とした共同体を、金で売買できると考えているのなら、迷いなく、風俗嬢と結婚するようなものである。

キリスト教的な考えでは、と日本人は誤解しがちである。

アダムの愛情の対象として、動物を神が作ったと創世記に書いてある。つまり彼らにとって、動物は自分の都合のいい、愛玩すべきものにすぎず、容姿が奇怪だったり、整体が不明なものは阻害していいと。

それに対して我が日本は、ともいう。生きとしいけるものは、自然が育んだものであり、対等に生かし合うという仏教の精神を持っていると。

ちょっと立ち止まってみよう。

キリスト教文化圏=動物を下に見ている=でも、動物を金銭で売買しない。

仏教文化圏=動物を台頭に見ている=でも、動物を金銭で売買する。

どうも矛盾がある。結局、ペットを売買するビジネスと、宗教文化は無関係と考えるべきなのではないか。

それは何か。日本人は生き物に対して、深い慈しみを持っており、夏の虫の声に対しても、風情を感じている。そういうロマンはあるにしても、決して、外国にないと決めつけるべきではないということだ。愛情の深さを測るバロメーターはないのだから。タイ人が象に対して持つ愛情の深さを、日本人は理解できないだろう。それは彼らの文化なのであって、優劣などない。

アメリカでは、年寄りと薄らバカが口喧嘩を放送されて、国民ががっかりしている。品性に欠ける内容であった。それが現代のアメリカだが、彼らの中でも、アングロサクソン人にはロマンがある。ヨーロッパで迫害を受けたプロテスタントが船に乗って、大陸に渡った。そこで野山を自力で切り拓き、自由と博愛を実現する、理想国家を作ったのだと。

実際のアメリカは麻薬と訴訟、軍需産業が支配し、大統領候補ですら、あのザマである。だが、現実とは関係なく、ロマンがある。

彼らを揶揄してはならない。日本だってそうなのだ。

長い歴史の中で、八百万の神々を信じ、仏教の精神を取り入れ、生き物の多様性を認めて、お互いを尊重してきた文化を持つ。現実はペットを売買するし、売れ残った命は殺処分することを厭わない。そういう現実とは関係なく、ロマンがある。

所詮、フィクションで建前なのだ。決して、事実ではない。

本当に命を尊ぶ、多神教の国なのだとしたら、クリスマス翌日の鳥もも肉の廃棄量を想像してみるべきだ。生き物の尊厳を信じていない証拠である。

命を売って、経済を回している。その罪深さを自覚して、恥じながらも生きていくのが現実である。それが社会だとか、経済だとか、居直るような輩になってはいけない。