豆か実か | 僕の理屈

豆か実か

後付けのこのタイトルに少しエロさを感じた人は、

なかなかの想像力ですが、少し恥ずかしいと思います。

もちろん俺が感じたから書いているのだけれど。




先日、友人と「アーモンドは豆か実か?」という話題で話すことがあった。



えんどう豆や枝豆、大豆なんかはどう考えても豆だよな、ということから始まり・・・、


ピスタチオはどうか?

なんかあれは実っぽいぞ?

クルミは実だよな?

木になるのか?そうだよな?

アーモンドはなんかに包まれてるのか?

マメ科ってのが豆なんだよな?

そもそも豆って種だよな?

実は種なのか?いや違うっぽいよな?


とか話してるうちに、常識と思ってることにも混乱が生じ、

次第に脱線してどうでもよくなって結論は出なかったと思う。



今日またふと思い出して。

一人で「アーモンドが豆か実か?」を考えてみた。


俺の個人的な途中経過では、“実”なんじゃないかと考えていたんだけど、

「カカオ豆」という存在を思い出し、再び混沌の園に引き戻された。

アーモンドが自生してる様を想像すると、

なんかカカオ豆と同じような気がする(チョコのパッケージにあるような)。

“豆”とつく以上、カカオ豆は豆っぽい。

アーモンドがなっている状態が、俺の想像通りかは微妙だけど、

同じ感じだとすると、豆なのか?

そうなるとえんどう豆とかと随分違うな・・・。


なんて考えて、結局、結論も確証もないまま今に至る。

(恥ずかしいほど根本的な勘違いがあるかもしれないが)



きっとグーグル先生(ヤフーお兄さんでもいいが)にお尋ねすれば、

ネット環境、探索、読む早さなどを考慮しても、

ほとんどの人が1・2分程度で決着を見るであろう。

でも調べていない。


こんなどうでもいい種類の疑問について答えを急ぐ必要はないんじゃないかと思っている。

この種のことは、適当に片手で手ごねにして遊んだほうが、美味しいんじゃないかと。

(実際は、こんな深く考えずに脊髄反射的に検索することがほとんどだけど)



なんだか、このインターネット社会において、

「調べてすぐわかる」ということに、なんとなくつまらなさを感じたりする。


疑問に対して、各々が独特の思考を巡らせたり、

今まで得てきた情報・記憶を手繰って真実に近づこうとする過程が、

無碍にショートカットされていいものと断言するには疑問を感じるし、

血の通った人とコミュニケーションを取って共有し、知る、探るという方法が、

極めて蔑ろにされていくことに寂しさも感じる。

(但し、もっと根本的な直コミュニケーションが希薄になるとはさほど思っていない)


ググりゃ一発なことも、某匿名掲示板(っていうか2ちゃん)で質問して、

「ググれかす」と言われたほうがいくらかマシに感じることすらある。

しないけど。

(これは血の通った人とのコミュニケーションに属すという考え)




きっと、「アーモンドが豆か実か?」を俺が前もって調べて、個で捌き事実を知っていたら、

この話題を振るようなこともなく友人と論を交わすようなことにはならなかったろう。

あの愛すべき無駄な時間が流れることはなかった。

もっとも、それとは別のもっと価値ある無駄時間が流れた可能性は充分にあるが。



最近、“個と共有”について考えることがある。

もっと突き詰めて書こうかと思ったけど、面倒くさいのでそれはまたにしよう。



共有が縮小し、個が加速していく時代。

「聞く前に自分で調べろ」ってのが正論としてのさばっているが、

今ある“調べる”は、昔ほどその行動の対価は大きくない。

自分に都合いいように解釈し、楽にすることが目的では話にならないが、

聞くほうが得るものが大きいかもしれないという仮説が頭をめぐる今日この頃です。



少なくとも、俺は「アーモンドは豆か実か?」ということに考えを巡らせた結果、

「アーモンドは豆か実か?」を論じ合うことの出来る友人が、

人生に一人はいて欲しいな、という一つの結論を、重要な再認識として得た。




アーモンドは豆なのか?実なのか?

果たしてどっちなんだろうか?

どっちでもなかったら、それもいいね。




以上