終電 | 僕の理屈

終電

“終電”にはいろんなイメージがあって、いろんな顔を持ってると思う。

終電そのものにも、終電と言う言葉にも。



例えば、

別れを惜しむ恋人を“別つもの”というイメージとか、

仕事の忙しさを示す“限界まで拘束”というイメージとか、

無くなることでひとつの箍(たが)が外れてテンション上がるような“開放”と言うイメージとか。



もう少し掘り下げるなら、

男女の関係の中で「終電を逃す」という“サイン”があったり、

上司と部下の関係で「終電までには帰ろうな」という“激励”か“圧力”みたいなものがあったり、

「終電?かんけーねぇよ!!」という終電を蔑ろにするノリがもたらす“起爆剤”みたいな効果があったり。



どれをとってもそうだけど、

“終電”と言うものが僕らの生活にひとつの大きなラインを引いていて、

それを跨ぐか跨がないかということが少し特殊な意味を持っている。



そんなわけで、なんとなく“終電”が好きだ。





世の中でいろんなものが24時間になり、

それに伴い人々の生活は変化していく。

とてもとても便利になっていく。

でも、「どうなんだろうな?」って思う。


携帯電話が普及して、今の子供たちは好きな女の子の家に電話をして、

当然のように電話に出る親御さんに「あ、あ、あ、○○子さん、い、い、い、いますかっ!」、

っていうシュチュエーションを経験しないで大人になっていく。

あの頃必要だった勇気は、今は少し種類を変えて必要なくなり、

あの頃みたいに「何時何分頃、電話するから!」と申し合わせるような、

淡い経験はもうないんだろうな。


コンビニが出来て、いつでも、どこでも傘が買えるようになって、

雨宿りしているところで、意中の異性と不意に時間を共有することも、

「となりのトトロ」のカンタとサツキの「ん。んっ!!・・・タタタタッ」ってロマンスも、もう描けなくなってしまう。


中高生のとき、女子たちがよく回していた、

よくわからん折方をした手紙は、今、メールの普及の中で生きているのだろうか?

見ちゃいけない人の手に渡った時の劇的な展開も、

メールがちゃんと代用してくれているのだろうか?

来年は、手書きの年賀状はきっと一枚も来ない。

来るのはきっと、テンプレを使ったデコメ。


You Tubeとか、便利だし目的を達するには近道だったりするけど、

本当に面白くなってるんだろうか?

面白いものを簡単に見れる時代が、面白いってことなのだろうか?

携帯のゲームって世の中を面白くしてるんだろうか?

本読んでた頃の方が面白かったんじゃないか?



電車が24時間運行になり終電がなくなったら、

便利にはなるのだろうけど、面白くはなくなる、と思う。




以上