12月13日(金)
珍しく、この日は仕事であちこちふらふらして来ました。
馬車道で用事を済ませ、桜木町方面に向かいます。
高校時代の友人の中華料理店前を通過し
野毛を抜けて
横浜にぎわい座へ
来年正月興行のチケット代を支払ってきました。
一旦会社に戻り、昼食を摂ってから鎌倉でお世話になっている方へ年末のご挨拶。
平日にも関わらず、多くの外国人観光客と修学旅行生で街は溢れんばかりの人、人、人・・・。
「静かな鎌倉」を求めてふらふらしてみます。
【盛久頸座】
平氏家人主馬盛久が斬首されようとした場所という。盛久敷皮蹟とも。六地蔵の西、長谷通り沿いに庚申塔数基がのこる。主馬盛国の末子八郎左衛門盛久は頼朝のお尋ね者。隠棲して清水寺へ千日詣をしていたところを北条時政に捕らえられ、文治二年(1186年)六月、由比ヶ浜で斬首されようとしたところ、清水寺の観音の御利益で助けられた、という話がある。長門本『平家物語』巻第二十に詳しい。
~ 『鎌倉事典』 ~
【長楽寺跡】
長楽寺は旧鎌倉町長谷の字名の一つです。当地に所在した長楽寺が地名の由来とされています。長楽寺は法然上人の弟子隆寛あるいは律宗の憲静の創建といわれ、鎌倉幕府四代執権北条経時の墓があったとされています。かなりの高僧がいた大寺院だったようです。
この長楽寺跡に旧加賀藩前田家第十六代当主前田利為(1885年~1942年)によって昭和11年(1936年)に別荘が建てられました。高台から相模湾を一望できる美しい洋館は、三島由紀夫の小説『春の雪』び登場する別荘のモデルになりました。その後は鎌倉市が譲り受け、昭和60年(1985年)に鎌倉文学館として開館し、鎌倉文士の原稿、愛用品などを収集、展示しています。
~ 鎌倉市 ~
大規模改修工事のため、2027年3月31日まで休館しています。
【甘縄神明神社】
祭神は天照大神。もとは神明社・神明宮と称し、昭和7年(1932年)に今の甘縄神明神社と改めた。社伝によると、和銅3年(710年)に鎌倉の豪族染谷時忠が創建し、源頼義は当社に祈願して八幡太郎義家がこの地で生まれたと伝える。源頼朝の崇敬厚く、『吾妻鏡』には奉幣・参詣・修繕の記録が散見する。なお、同書には「伊勢別宮」と記されているので、当社は大庭御厨の内に奉祀された神明社とも考えられる。各地に建立された神明社の先駆的存在といえよう。
~ 『鎌倉散歩24コース』 ~
オオイチョウ/鎮魂碑(昭和50年・1975年8月15日建立)
「鎌倉の み越の崎の 石崩の 君が悔ゆべき 心は持たじ」(萬葉集:三三六五)/
北条時宗公産湯の井・二條公爵愛用の井
米壽の碑(建長曇華九十翁書)/秋葉神社/奥宮
帰り際、防空壕(?)と石碑を見つけたので確認してみると、石碑の後ろには
五輪塔と石塔が
【染屋太郎大夫時忠邸阯】
染屋時忠(生没年未詳)
鎌倉の始祖的人物。『大山寺縁起』に開基良弁は鎌倉由伊郷の人、俗姓漆部氏、当国良将染屋太郎大夫時忠の子とあるのが初見。家産侈富、娯楽無彊という記述に土豪的側面が窺える。縁起との関係は不明だが、『詞林采葉抄』の注に「鎌足の玄孫染屋太郎大夫時忠(東大寺良弁僧正の父なり)文武御宇より聖武天皇神亀年中まで鎌倉に居住、東八ヶ国総追捕使にて東夷を鎮め国家を守り奉る」とある。三宮明神社の鐘銘(延宝四年・1747年)に「天平年中当所に地を占め玉宮を創建、鎌倉の鎮将太郎大夫時忠の尊影を安置し、三宮大明神と崇敬し奉る」(『相模国風土記』)というのも縁起・采葉抄の伝承と同根であろう。『鎌倉志』も采葉抄の文を引いた後、時忠由比長者の時、息女の遺骨を雪下相承院の如意輪観音の腹中に納めた由を記す。時忠第址は甘縄神明社南の長者久保にあると伝えるが、諸国に多い長者屋敷伝説の一つかもしれぬ。要するに染屋時忠は、縁起以前からこの地に存した伝説上の始祖的人物とみられ、その伝承変化の過程には中世僧徒の関与が推定される。 ~ 『鎌倉事典』 ~
【塔ノ辻】
辻の五輪塔/鎌倉彫 寸松堂(国登録有形文化財・鎌倉市景観重要建築物等)
塔之辻(かまくら 昔みち)
由比ヶ浜大通りの中程、笹目のバス停留所の近くに十字路があるが、ここを塔ノ辻という。佐助稲荷や銭洗弁財天へ行く道で、角の由比ヶ浜郵便局の前に、小さな五輪塔がある。この辻は、鎌倉内に七か所あったといわれる塔ノ辻の名残りで、地名として残るのはここだけである。鎌倉には、所々の辻に石塔を建てる習俗があったらしく、伝説も残っているが、この辻の塔には近所の人が花を供えたりして保存している。 ~ 『鎌倉事典』 ~
さて、お土産を買ってから、そろそろ待ち合わせの鎌倉駅に戻りましょうか。
小町通りにある「源吉兆庵」
なぜか同席された有名な作曲家の先生から大仏キャンディーを買って頂ました
(ありがとうございます!)