2月2日(火)
 
市営地下鉄「蒔田駅」を挟む形で鎮座する社寺の創建は、源頼朝の三男「貞暁」と云われています。
 
貞暁(じょうぎょう)について『鎌倉事典』には、
「文治2年(1186年)~寛喜3年(1231年)頼朝の第三子で真言宗の僧。若宮別当。仁和寺法印。母は藤原時長の女。(異説あり)殿中に祇候中、頼朝と密通し生まれたという。実朝を暗殺した公暁の師でもある。所領は備中多気・巨勢荘、和泉長家荘、伊勢山田野荘など。寛喜3年2月22日高野山にて入滅。」とあります。
 
【杉 山 神 社】
 
御祭神:市杵島姫命、天照皇大神、宇賀御魂命/創建:承元3年(1209年)
 
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「杉山神社」の文字は、東郷平八郎の書です
 
由緒では「貞暁が鎌倉幕府の鬼門鎮護のため、伊豆国土肥の杉山から勧請し、市杵島姫命を鎮座創建した。」と伝えます。
しかしながら、『新編武蔵風土記稿』では、「杉山明神社 除地三畝村の中程にあり。村内の鎮守なり。」と簡略な記述となっています。
 
【南龍山不動院無量寺】
 
宗派:高野山真言宗/創建:承元3年(1209年)
 
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武相二十八不動尊霊場 第16番札所/新四国東国八十八ヶ所霊場 第55番札所
 
由緒では「頼朝の死後、幕府は政権の安定を欠いたが、幕府創業の功臣執権北条時政は貞暁を将軍職として鎌倉に招聘した。貞暁は途上蒔田の宿場に着いたが、その夜持仏である不動明王が夢枕に立ち、『汝、鎌倉に入るとも世はすでに北条の天下である。旬日のうちに運命の厄に遭わん。宜しくこの難を避け菩提の道を得られよ』とのお告げを受けた。貞暁は深く時局を洞察して入府を断念し時政に告げた。時政は上人の清い信心を讃え、鎌倉法印の称号と禄を以て遇した。この奇縁によって、蒔田の山麓に御堂を建て不動明王を本尊として安置し、南龍山不動院無量寺と号し、貞暁は当山の開山となった。以来鎌倉鎮護寺として発展したが・・・」と伝えます。
しかしこちらも、『新編武蔵風土記稿』では、「年貢地。村の中程にあり。古義真言宗。石川寶生寺末。南龍山と號す。本尊不動を置」との記述のみです。
 
貞暁の『吾妻鏡』での記述を少々・・・。
 
【誕 生】 文治2年(1186年)2月26日述
「甲戌、二品の若君(貞暁)誕生、御母は、常陸介藤時長の女なり、御産所は、長門江七景遠の濱の宅なり、件の女房殿中に祗候するの間、日来御密通有り、縡露顕するに依りて、御台所(北条政子)御厭ひ思すこと甚し、仍って御産の間の儀、毎事省略すと云々、」
 
【旅立ち】 建久3年(1192年)5月19日述
「庚寅、若公上洛せしめ給ふ、是仁和寺の隆暁法眼の弟子として入室の為なり、長門江太景國、幷びに江内能範、土屋彌三郎、大野藤八、由井七郎等扈従す、雑色國守、御厩舎人宗重等を差進ぜらる、常陸平四郎の由井宅より進発し給ふ、去夜幕下(源頼朝)潜かに其所に渡御、御剣を奉り給ふ云々、」
 
【最 期】 寛喜3年(1231年)3月9日述
「乙未、、六波羅の飛脚到来す、去月廿(二)日仁和寺法印御房、貞暁、四十六、高野に於て御入滅と云々、是幕下将軍の御息、御台所(藤原頼経室)の御伯父なり、仍って御軽服の間、竹御所に入御、」
 
貞暁の小説には、高橋直樹氏著『霊鬼頼朝』所収の「無明の将軍」と、火坂雅志氏著『源氏無情の剣』所収の「独眼法印」があります。(書庫の整理が行き届かず、本が見当たりませんでした!  )