2年前② | 心筋緻密化障害の兄弟の奇跡☆

心筋緻密化障害の兄弟の奇跡☆

3人の母です。

次男と三男は心筋緻密化障害(心筋症)をもって生まれてきました。

次男と三男の闘病記録と、亡くなった後の私の日々の気持ちを書いています。


2014年2月

ICUに入院中だった次男の敦希が急変し、医師から「非常に危険な状態で蘇生をしている」と説明を受けた時、私はその言葉の意味をすぐには理解することができませんでした。


すぐに主人が「それは心肺停止ということですか?」と医師に尋ねたのですが、「何訳分からんこと言ってるん!?」と思ったほど。
本当に、本当に、意味が分からなかった…


蘇生を受けている敦希の姿を目の当たりにした時は、現実とは思えない、信じられないような状況でした。


その後、一旦回復はしたものの、限界だった敦希の心臓は何度も止まろうとし、私は医師に回復の見込みがあるのかどうかを確認してから、心臓マッサージを止めてもらいました。


それは、考えて考えて悩んで決めた言葉ではなく自然に出た言葉で、敦希が何度も何度も心臓マッサージを受ける姿は本当に苦痛で耐え難いものでした。


敦希が危篤の宣告を受け、身内に心臓マッサージを反対された時、私は怒ったし「絶対に簡単に諦めない!」って思いました。


でも、心臓マッサージを止める時は「もういい。たくさん頑張った。ゆっくり休ませてあげたい」という気持ちでいっぱいでした。


でも、敦希が亡くなった後、心臓マッサージを止めたことを「本当に良かったのか?敦希はもっと頑張りたかったかもしれないのでは?」と悩んでは後悔を繰り返す日々を送ることになりました。


あの時の記憶を振り返っては後悔して、敦希の命を止めてしまったのは私かもしれない…と思うと怖くて怖くてたまりませんでした。







そして、年月は過ぎ…


3年10ヵ月後。


またもや我が子の心臓マッサージを、私の言葉で止めることになりました。


三男が亡くなった直後、三男の体に繋がっている管を全て外すため、一旦部屋から出るよう言われたのですが、部屋を出た途端にどこにぶつけたらいいのか分からない感情が込み上げてきて、「何で子どもを2人も亡くさなあかんのよ!!!」って大声で泣いて泣いて泣きじゃくりました。


でも、三男が亡くなって悲しみに浸るのはほんのわずかな時間。そこからは現実です。
私はそれからの一連の流れを知っていました。


あぁ、私はまた同じ道を辿るんだ


その後の話で何を言われるのか、病理解剖の話、書類の話、沐浴の話、どこに車を停めて、どこの出口から帰るのか、出口には医師や看護師が並んで待っていること、葬儀のこと…


敦希の時に得た知識や情報があるから大丈夫だと言っていた自分が情けなかった…


もう、絶望でした。







あれからもうすぐ2年。


それでも私は生きています。


生きるからには明るく生きるしかないんだなぁと思いながらも、心の中は卑屈とモヤモヤでいっぱいです。





敦希と三男に会いたいなぁ。
















2人とも、ほんとうに、ほんとうに


よく頑張ったね。