『情況 ・ トポス(物神崇拝妄者の自慰運動)』   1979年制作by加藤

            1、940×2、850 カンバス変形組合せ            銀座・村松画廊個展出品作品

                  M・ぺースト、油彩、アクリル  ⁂モノクロ写真

 

  2章

  「黄犬」と「赤犬」 同じ穴の貉(ムジナ)

       -ある労働組合にみる排除の暴力 4

                         平気で嘘をつく 冤罪屋どもの実像)

 こういったテレビ・リンチ事件は、番組制作者や出演者のう 

さんくさい正義感や党派性の無知から起こるばあいも、同じ 

程度のボンクラが情報の新しさを追っかけるから、ひとりでに

おおきくふくれあがる感染性の場合もあった。いったん小さな

情報孔が与えられると、たちまちおおきなf噴流になる。被害

者は情報の銃弾を乱射され、血祭にあげられて倒れる。

 このゾッとする、おぞましい過剰反応・・・。

 ひとつは、リンチ実行者がいちように、正義と倫理を手に握

った<神>みたいに振舞って、疑いをもっていないことだ。

 もうひとつは、ほんの少しでも国法に触れた者、または国法

に触れたと疑われた者を、人でなしの、人間の風上にもおけ

ぬものみたいに取り扱って、ちっとも恥じないことだ。そんなひ

どい人間観を、テレビ番組制作者や出演者は、いつ持つように

なったんだ。

、                            吉本隆明

                    『 全集20 「リンチ機械としてのテレビ」』(晶文社)

 

  人間が怒り・ねたみ・あるいは・・憎しみの感情に捉われる

限り、その限りにおいて人間は、種々の違った方向に引きず

られ、相互に対立する。こうして人間は、他の諸動物よりも一

層多くをなしうるのに従って、また一層狡智的かつ欺瞞的で                                 あるのに従って、一層恐るべきである。しかも人間は本性上

…こうした諸感情に従属しているから、そのゆえに本性上互                                 いに  敵である。何しろ私にとって最も恐るべき者、また私が                                 それを最も防がなければならぬ者は、私の最も大いなる敵だ                                    

からである。                                                        

                          B・D・スピノザ                                   

                           『国家論』(岩波文庫)                                       

 

  1.久米宏と『ニューステ』スタッフの冤罪報道暴力

 たまたま、はやく寝入ったので早朝目覚めたTVのスイッチをいれると「なに?戦争(が起こる)ですって!」と黄ばんだ司会者の声がとびこんできた。続けて「ダレがそんなコト言ってるんです⁉」と詰問口調だ。気押されたものか、恰幅のよい風体に重厚な慎重居士の印象を与える実証分析の保守的論客コメンテーターも遠慮がちに「深い考えをもっている人のなかには、そういう(危機感をもっている)人もいます・・」と、口ごもって歯切れが悪い。「チェッ!」と舌うちしたような司会の人物の棘(とげ)のある空気を残して、進行が切り替わったがカレには、この十数秒のワンシーンが嫌惡を感じさせ、「ボケッめ!」と口吻(こうふん)するだけではすまないでこのク二の無菌の毒をまき散らす、安逸なマスメディアの環境に腐食されたキャスターや制作者らの無思考に汚染された大衆実態をもオーバーラップさせた。    

 「官僚制度の番犬」(註1)と海外メディアから冷笑されながら、いっかな変わらない国家権力の隷属統制下にある、このクニのメディア。 すると、無思想者があたかも正義を気取り愚衆の啓蒙者であるかのような面貌をして自己喧伝する瞞着野郎が登場し大衆を刺激し拍手喝采をうけたりして底にある盲目の総体がマスメディアによってつくられている現実が透けてきて不信感蔑視感が頭をもたげさせた。         

 

 「世界を滅ぼすのは核戦争でも環境破壊でも宇宙人の襲撃でもない、テレビだ!」(註2)と皮肉り、管理統制された尻きりトンボのような政情の白々しい媒介供給や退屈に倦いた視聴者の世間話に資するべくバラエティ番組の娯楽享楽の作為的演出の在りかたなど、総じて現実を直視することのないステレオタイプの実態を明かし論難していたジャーナリストの言葉を憶えている。 SNSやソーシャルメディアの普及でテレビ視聴率の低迷がデータから、されているがテレビが生きがいその物になり、退屈と孤独の地獄から逃亡すべく反動形成し,更に反復脅迫にたいする生存の穴埋めメカニズムを内蔵している無数のマジョリティの「生政治」化された現実は反映すべくもない。   

 高度成長下の“親方日の丸”時代のテレビつくりは企業戦士と化して献身的に働くニッポンジンたちの困憊(こんぱい)した疲労回復剤として役立つ使命を担っていた。 ハズは帰宅すると呑みながら巨神戦をワイフは子育てのかたわら昼メロに熱中し今世の人生のすべては建売の一戸建てを買い平和で安楽な生活を築くことその夢の実現のために一心不乱に働く理想的人間像に即応するようにテレビ番組は制作され流された。資本の生産力・生産関係理論に包括され鋳型された社会の隷属体質が大衆に浸透するようにマスメディアは権力機構の一役を担(かつ)いでいたのである。 “第4の権力”を僭称して!   

   

 リードに掲げた吉本隆明さんの「リンチ機械としてのテレビ」という一文は1984年2月に書かれたものだが、37年後の今日のテレビ界の現実をも射ているものだと重ねて同意するしかない。

 ーー醜悪に捏造(ねつぞう)演出した一方的なテレビ放映にしらぬまに登場させられ、愚弄され恥辱され社会的抹殺の人権侵害に晒(さら)される状態に追い込まれるハメになり苦闘せねばならなかったカレが、そのテレビ放映を演出した当該者らのイデオロギー的実体と対決するために人権に無自覚な病根の実態を剔抉(てきつ)しておのれらの無責任と居直りの邪な心的構造を披歴れき)してやるのが本章の目的である。

 前章までの「労働組合」におけるカレの孤独な闘争についての記述をお読みの方は、労組のイデオロギー・ゴロの病的で悪辣な貶めのために放った口車(カレを愚弄罵倒対象にした「投書」)に乗った、メディア内に潜む同種同族の細胞が「政敵」ならぬ「怨敵」(K・シュミット)とカレをみなし、スケープゴートにして嘲弄の種をバラ撒くことを目論み、全国ネットの電波を私物化した人権誹謗の冤罪事件であったことに気付かれることになるだろう。               

 以下、詳述していく。

 

                         

       久米宏               小宮悦子            “パルタイ”スタッフ

 

 “メディアは時の権力(立法・司法・行政)を監視し告発する使命を担う<第四の権力>である”という通りのいい言いぐさに気蝕(かぶ)れたものか、己れは「反権力」の主体てきイデオローグである!などと宣(のたま)い、ニュースキャスターとして登場してきた久米宏は、本性はバラエティー(寄せ集め)のオチャラケを習い性とする芸能タレント(素質)と覚しいキャラクターだが、滑舌(かつぜつ)の特技をフルに生かせると見込まれて『ニュースステーション』に登用されたときく。 早稲田大学の政経出だというので学問のベースが担保されてあるかのような口舌をしては政治,社会情況を正しく把握認識してきたかの知的マインド風を気取り、『オフィス・トゥー・ワン』という久米の所属先の原稿書きスタッフの演出と後押しタッグに乗りまくり、視聴率が上がるにつれ「高級国民」(!?)とか、「20世紀最大のジャーナリスト」(!!)であるなどと吹っ掛けてめえの偶像崇拝!を企むようなポーズをとり続け、売り込みのためには恥もわきまえず「浅ましいセコイ野郎だなあ!」と慨嘆を覚えることがいくつものシーンの言動やブログで見せつけられた。 こういう徒は、「完全性自己像」の「幼児性ナルチシズム」に囚われた人格障害の典型であって、 愚衆の「集団ナルチシズム」に埋没していく古層を掘り起こす作業同様、心的現象の精神分析にかけねばならない症例を示しているのである!(詳しくは次節)。 

         

 「体制/反体制」の左右政党間次元の関わりにすぎないことを、「反権力」の営みである!などと大風呂敷を広げスローガンに掲げるが、久米は「権力」に包括・補完されるしかないレベルのイデオロギーの徒であって「反権力」という以上、自由と解放にむけた英知を傾けてする抵抗と闘争の強靭な意思と、「反時代」精神を培う深い思索を要することがわかっていないから茶番な虚勢を張るのである。実像は自民党内部のドロドロ政治の虚偽や不正の内幕を漁(あさ)ってきたネタを提供され、面白可笑しく暴きたて視聴者の好奇心をそそるようにしつらえあたかも左翼的正義漢を気取り先鋭ぶったりして、まともな知性人からみれば、表面的に時流に乗っただけの抜け目ないメディアブローカーにみえていたはず。 「政治」は党派間の(物神崇拝に囚われた)人間奸計の腹黒な泥臭い駆け引きダ、とみなす態度は政治主義者の常套(じょうとう)意識であって民主主義というイデオロギーを護るためだから、“投票にイケイケ”と被選挙人を煽りまくり、不真面目だからイカナイのだとケイベツさせるプロパガンダと裏表だ。  「政治」の話などすることもないという無関心や敬遠する心裡には、このクニの閉鎖された政治体質の歪みの習慣化に対する違和感、忌避感があるのは見やすいことだが、さらに「政治」の話をするのは“ヤバイ”という潜在的な恐怖心を抱かせるものがあって、そば耳をたてた正体不明な権力の網の目が毛細血管のごとく張り巡らされ阻害しているからといえる。 “ウザい、くさっ、カンケ―ねえ!”意識の根にあるものは、議会の議員同士の猥雑騒音論戦ができるから民主的自由があるなどと宣っている徒らが、民主主義制度のスバらしい仕組みを知らぬ無知のごとく決めつけてくる騙りの馬鹿さ加減への白けた抵抗なのだ!  

 「政治」には統治支配権力のマキャヴェッリックな権謀術数の巨悪が覆い、寄生する疚(やま)しくおぞましい小悪がはびこっている世界なことはダレでも知悉していることだ。 「政治」が絡む利害得失を争う善悪にたいするそれぞれの非難や正当化の反応は地域帰属性や社会的階層の立場そして役割、人間関係等の要因に帰因しているなど道徳・不道徳では裁定できない屈曲した生存の現実対処感や情念にあるとしか言いようのない遅延した複雑な構造がある。現状是認ダ、維持ダ、そうした言い分に収斂している実態の根源には、存在維持暴力を孕んだ閉域の全体主義権力による狡猾な仕掛けの悪霊が潜んでいることだ。拒絶できない(してはならない)その生存の現実を踏まえながら、「政治」の有限性を超えていく“無限正義”に向かう人間観・世界観探求の姿勢と視座があるかどうかだ。

 ーー久米は「政治哲学」観でもあるかのように、しかつめらしい面構えをして10秒ていどチョロチョロと舌口に上せてみせるシーンに出くわしているが、放送話にそぐわぬうえに早口で聴き取れないうちにケチョンだ。わざとらしい、思わせぶりに聴こえたものだ!それは歪曲だ、悪口だと言うんであれば、『ニューステ』において放った言動とオノレの思想と理論のベースが奈辺にあるのか乖離(かいり)齟齬するものでないことを“文字化”したらいい。早大でタレントになることをユメみてパフォーマンスに打ち込んでいて、学業は主に耳学だったろう輩があの学園紛争の激しかった時代、全体集会で壇上にあらわれてペラペラ喋っては煽るような演説をして終わるとすぐ消えてしまうのだと全共闘の学生だった人の“証言”だ! 当時、全共闘の学生活動組織と民青・日共の学生組織は激しく対立していた。ラジカルな活動家のカッコよさに魅かれるものの非合法活動はオッカネヘ、ヤワな民コロは党に凝り固まった安全圏にいる臆病な卑怯者におもわれるからイヤだ。 ノンポリと蔑称されるどっちつかずが無数にいたが、久米などはさしずめノンポリの類だったことは、のちにパルタイに抱きこまれていくところからして政治意識は安全志向の、曖昧な気分で生きる一般学生だったことは読み取れる。

 吉本隆明さんが久米宏は「ドロボーの正義漢」だと揶揄(やゆ)したのは学生時代からの軽佻浮薄な虚飾屋の種子が歳フルごとにノサバッテいくだけで、自己対象化能力が欠らくして育たずまったく倫理性をはぐくむ精神性の素地がみえない俗で享楽的で、自己顕示欲だらけの人品をして大衆の指導者ツラをするポーズにあった   

 『ニュ-ス23』のメーンキャスターだった筑紫哲也さんへの吉本評もきびしいものだったが、筑紫さんのジャーナリストとしての公正な報道倫理の拠って起つ立場を模索する姿勢と経験知の奥行きをもった誠実な人柄への信頼感に裏打ちされたものだ、とみていた。  

  正義の息吹も倫理の香りも装って伝わるまやかしではない。「筑紫さんはこのクニの、もっとも優れたジャーナリスト」(立花隆)という評価は贔屓(ひいき)のゆえではない。

 

 カレは久米よりも半年ほど先に生まれているが同年の生まれであり戦後の同時代の底辺の空気を肌身に染みて生きてきている。(カレの戦後の幼少期から青年期の人生経験については本ブログの1章から4章前段まで記述したとおりであり、追体験の再現を試みたものであるが、久米とは「戦後」の空気の吸い方に、ほとんど相互性も互換性もない)。

   カレは『ニュースステーション』という番組が開始されるまで「久米宏」というネームをよく知らなかった。若い頃からニュースとアクチュアルな関連報道以外のチャンネルはあまり観なかったし歌手や芸タレさんの番組を見る余裕はなかった。近年、“「ぴったしカンカン」とか「ザ・ベストテン」がどうのこうのとか「転機だった」”とか、大ゴトに聞こえる自己喧伝をしていたがそんな娯楽番組名について知る由もない。ただ、新聞の週刊誌発売広告で「久米宏」というネーミングが大々的に踊っていたことがあり、いやでも眼についたことがあったが、“マタ、マタ、芸タレ野郎のスケベな痴話喧嘩だろう、クダラネへスキャンダルだ”くらいに思っただけでまったく忘れていた。          

 

 そんなわけで、久米宏の前身などどうでもよく1985(昭和60)年10月の開始日から視聴した。“このキャスター、なかなかヤル人物じゃないか?粗っぽく告発的な調子で否定性を受感させるキャラクターは、今日の管理された民主主義のもと無自覚で閉塞した陰湿な世俗の集団病理を抉(えぐ)りだすような対決的な作業ができるのではないか・・?”ーー当時、前章(6章)で述べた労組内状況にあり、後述するように学校教育現場の私的利害屋、人間奸計の利権屋タイプの似非教育者どもとお追従主事らの集団組織の欺瞞的道徳の毒針に刺された人品に嫌悪し軽蔑していたカレには、このクニ全体に瀰漫(びまん)する似非民主主義風潮と台頭する群盲ファシズムの腐った臭いから、その対立者としての器量をもつ響鳴音を感受した。 いや“してしまった!”と言うべきだ・・・。

 

 まず、1997(平9)年4月『ニュースステーション』の久米宏に宛てたカレの『質疑状』を読んでいただきたい。読みやすくするために少しく、字句をなおしたり付加したところや省略した文節があるが原文の趣旨通りである。この挿入文を訝(いぶか)しく思われる方もいるでしょうが、後述に進まれれば整理され推察されると思う。                    

 

  前略。  ご活躍のこと、時間のゆるすかぎり、・・・視聴しながらお付き合いさせていただいております。送付しております小生の《よるの学校しんぶん》をお読みくださっていることと存じます。拙い文章ですので多分、読むのにご苦労なさったことと思い恐縮しております(難しくてよくわからない、というのが学校社会の“住人”たちからの反響ですので・・)【註・何故,『しんぶん』を送ったかは後に理由がわかります】。しかし、コトは貴兄とデレクター氏らスタッフ面々が係わっていることでもあり、これは人権侵害である事実をご理解いただくためにもお読みいただくしかないわけです。今日まで《しんぶん》に登場してもらっている人物たちからは何ら反論もなく黙して語らずです。例によって貴兄あて小生の中傷文がまいこんでいるのですか?(略)さて、お忙しいでしょうお仕事の中、くだくだしいことはやめて単刀直入に申し上げます。貴兄と番組を<訴える>というような事態にまで発展しないように粗略な扱いは避けて下さいますようお願いいたします。                      

 ● 1986年10月に貴番組への小生の投稿(後述)に対し、以後誹謗する投書は今日まで   

   幾度に及ぶのですか?                                

 ●投書その他、具体的な証拠物を保存していますか?                       

 ●保存しているとしてコピーをいただきたい。また保存していないとすればどうしてですか? 

  【註記】 「保存」しているかいないか問うている理由は、この質疑文を送る前に同番組に電

        話を入れていて、応対に出た若い女が(後述するが)シラをきり、 あげくは「おま

        え“たち”のようなモノの記録など処分してるにきまってるだろ!」と悪らつな暴言

        吐いて受話器を投げる!という事実があったことによる。久米は録音されたカレ  

        と暴言女の応対を聴いている。                            

 ●誹謗の投書者は自分の署名をしていたか、名のったりしていたのですか?署名による投

  書であったとすれば、本人の実名であったかどうか確認されたのですか?          

 ●おそらく、無署名であったと想定してお尋ねしますが、出所曖昧な中傷文をもって電波に 

  乗せた根拠はいかなる理由からですか?事実関係を調査したとでもいうのですか?!

   その中傷文に小生の名前と悪口雑言愚弄することが書いてあったわけでしょうが、小生

  には何の事実確認もなく、その必要もないと一方的判断したことと合わせて応えていただき

  たい。

 ●小生の言い分がお可しいかどうか、貴兄あるいはディレクター氏とじかに会ってコトバを交

  えたいと望んでいます。いかがですか?

   現在までのところ応えていただきたいのは以上です。この放映の一件で小生はとてつもな  

  い大きな被害をうけていくでしょう。 

   【註記】カレが名指されて放映されたことを知ったのは、知人と電話で話していて「久米宏 

       がアンタの名前と住所を読み上げていたよ。」と言うのを耳にしたからである。「小

       宮悦子がスゴイ剣幕でひでえコト言ってたな」とも!「いつ?」「いつだったかなあ・  

       ・・?」ーー詳しくは後述するが、『ニュースステーション』に電話をいれたのはVTR

       をみる要求と、明らに小宮が放ったという中傷誹謗は悪質な「投書」によるもので                  り、上述の裏方女の“暴言”は故意に隠蔽するために本投稿にたいして久米宏                小宮 悦子、角澤 照治ほかを総動員してカレが「簡単なケイサンもできない痴呆                    ダ!」 と、罵詈讒謗の限りを浴びせてきたのであった、全国ネットをとうしてだ! 

       レの眼にはTVスクリーンの映像が今も焼き付いている。 そ して何と、最後にスク 

       リーンいっぱいに『赤旗』を映し出したのだ、“オレたちはパルタイ(党)だ、お前は敵

       だ、文句あるか! ”といわんばかしに!!

         しかも、この199年4月にだしたこの『質疑状』と放映による侮辱的応答に先

       立つ半年前(96年11月)に“無記名”で出した「A4」2枚ていどに和暦(明治から平

       成まで)の手っ取り早い計算式を記述し若干のコメントを付しただけの内容に、何を

       憤慨したものか! 差し出人の氏名・居所を探しまわったのだろう、翌年97年のこ

       の所業にでたものだ。 他人を誹謗するような文面ではないのに、である。

         “惡意”にとらねばならない胡散臭い理由が久米とスタッフらにはあったのであ  

       る! 何故ソンナ投稿をカレしたか? については次節で記述していく。

何事も血肉にしていくという精神力がなければとても持ちこたえられる出来事ではないでしょう。 貴兄はメディアに場をもち一方的に使えるけれども、小生は扱われたままだ。 貴兄は大衆の人気者だから大衆から隔たっていられるだろうが、小生はそうはいかないのですよ。

                                                   草々。       

 

 慇懃(いんぎん)なコトバを使っているのは久米宏の応答を引き出すためだ。 なにか久米の背後にはイカガワシイ連中がイル… TV局の現場の内実など知る立場にないとはいえカレの直感は、『ニュースステーション』の制作スタッフは公正や正義の倒錯した騙りの澱(おり) が沈殿したあの“細胞”どもではないか? この意気がった空気はカレが今現在相対している都職労支部SN区労組員ら選挙票を稼ぐのを至上命題として生存し監視体制を敷いている、かの「前衛」イデオローグらの体質と酷似している・・と疑念を抱かせるにはそれほど時間はかかっていない。 ただTV朝日が“言論の自由”を標ぼうする朝日新聞をバックにしていながら、視聴率を稼ぐためとはいっても「放送基準」に違背する出鱈目(でたらめ)な人権冒涜を久米宏らに垂れ流しさせたり、 一視聴者にむかって喧嘩を売るような恫喝行為を野放しにしたりするものだろうかーー?

 それが氷解したのはかなり期間を経て眼にした小田久栄門というTV朝日の報道局次長として番組制作を主導した人の発言をとりあげた書物(註3)からであった。 小田さんの『ニュースステーション』に関する発言を以下に引用しよう。                  

 「私が報道局に異動した時・・あれほどひとりよがりで、排他的な集団はないと思いましたね。 視聴者に見てもらおうがもらうまいが

、自分が原稿を書いていることは大きな社会的使命に基ずくものだ、という錯覚があるんです」。

ここにいう「排他的な集団」とは、久米の所属する「オフィス・トゥー・ワン」というメディア作家や芸タレさんなどを抱え派遣する、あるいは企画制作に関わる会社で、『ニューステ』には同社のプロデューサー、デレクターらも久米とともに参加していたという。 背後にいて久米を動かしていたのはこの連中だった。 小田久栄門さんの報道人としての経験とセンスから見た批判だろうが、はからずも党崇拝で凝り固まった細胞が党の選挙票獲得の「社会的使命」に燃えて邁進していた独善の雄姿! が、彷彿(ほうふつ)としてくるではないか!!

ひとまず、久米個人に対する言及は次節に折り込むとして、カレを中傷する誹謗「投書」をし、久米宏らを刺激し巻き込んだ輩のニンゲン実像と背後にいた集団の実態をつまびらかにして組織的冤罪暴力の事実関係について、『記録』にもとずいた記述に移ろう。

 

  2. 集団ナルチシズム体質にみる白痴的冤罪暴力 

     中傷誹謗の「投書」をしたのは当時SN区立HU小学校用務員で都職労SN支部の委員長吉田勝彦の手足歯車であった野田久江という日共党員であった。 カレより9年ほど年上の女でHU小に異動してきたのにはHU小の近隣住区が細胞フラクションの拠点だからだろうと推測していた。 さらに、当時同校の教諭だった伊藤行夫(みちお) という3歳下のモト中核派だと自称する男で他区で臨時の代替教員をしていて32歳で本採用になり特殊学級に赴任してきた人物である。 伊藤はTBSテレビの福留功男の『ブロードキャスター』や、NHKのある昼番組(調査中)にまで誹謗投書をし全国放映させる、という悪辣な冤罪行動をした教員である。 両名と管理職を含めた取り巻き連中の心的構造の分析から、学校現場のおぞましい実態と<学校化>ニンゲンの群れを連綿と生み出してきた、このクニの社会の歪んだ現実が見えてくると思う。

 カレは、乏しい能力の拙い生き方しかできない孤独を好む男だったが、生活者的現実の体を張った生き方の認識から見出せる、真実こそ創造する者の糧だと疑わない信念と誇りをもって、画業に自噴研鑽していたから<学校化>意識など脆弱者の持ち物としか見えなかった。  このクニの日本型市民社会の,特殊な現実を生きていかねばならない宿命にだれもが当面する“集団(あるいは共同体)と個人”の矛盾撞着の融合関係がもたらしている人間性の、負の事実を毛ほども見据えず無自覚な徒ほど、<学校化>意識(やセクト意識)に凝り固まったそれ以外にナニもない空疎な内部を抱えている大衆実態に出遭ってきた。「学校は“民主的な人間を育成する神聖なる教育の場”だ」 ーーもっともらしく通用させてきたこんな言い分を今日信じるような人間がいるのだろうか⁉ 教育脅迫のトラウマを与えてきたこの修辞に、<学校化>ニンゲンどもの自己欺瞞の隠蔽と自己正当化の根拠があったとみなければならない。  

 カレがやむをえない事情(ブログ⑥を参照)から『よるの学校しんぶん』を発行してでも労組、学校、行政などと、闘わなくてはならないと思った主意には、“集団(や党派)”にのめり込む実態を見せつけ“個人”の主体にも自立にもまったく恐ろしい(と言ってもいい)ほど無思考な徒らが「アイツはこのクニの世相に背く非民主的な輩であり生意気な異端のゴロツキだ!」と矮小喧伝し悪辣な個人的風評を立てまくり、デッチアゲの冤罪行為に発展する、排除の暴力にでたことだった!

   吉本隆明さんのような巨大な人ですら、“周りに支えてくれる人たちがいなかったらオレ一人ではとても闘えないでダメになっていっただろう・・”と告白していたのを憶えているが、支援などあらわれようもない環境でオノレのような者が、孤立者として対峙して、生産的なことになりえようか・・と思い惑わぬことがないではなかったがこんな「賤民的友情」(H・アレント)に喰われた魑魅魍魎どもの、集団暴力のナニするものか、理はわれにあり!と、屈するなど思いもよらない生来の闘争癖が勝ってしまった。 当然、闘いは名誉棄損罪を賭けた訴訟でやるしかない。  『よるの学校しんぶん』は訴訟のための第一資料だった。 

 「実名」をだされ公表されてもナニも言ってこない、事実を書かれているのだから反論などできるわけがない!裁判になれば、法廷で陳腐で恥知らずな人品と低レベルな知能の中身を自己暴露するだけでできることは裏にまわって「嘘も100回つけば真実になる」というあのナチ宣伝相だったY・ゲッペルスのプロパガンダと伝わる、醜いフレーズの執拗な本能的衝動的実践だった!  ーーしかし、探しても出遇えない、弁護士界の現実を突き付けられる苦々しい経験をしていくことになる・・・。以下の弁護士からの返信を掲載する。

 「 加藤興治様   資料は拝見しました。加藤さんにとって、またこの社会の中でおこる出来事として、あまりに大きな問題であり深い問題です。私の手にあまる問題との判断はつきました。      

 回答がおそくなり申し訳ありませんでした。資料をすべてお返しいたします。                   08.6.24  S・H  」

都内某所のA弁護士事務所の人権派弁護士に訴訟担当依頼をしたおりの「回答」文書の原文の転記である。 (承諾はとっていないのでイニシャルにした)。 丁寧な応答をしてもらったのはあとは都内のS・M弁護士くらいで長年月に幾多の弁護士に依頼したがそっけないものだった。 久米宏らの誹謗報道が人心に食い込んでいたことを痛感させられるシーンが幾度もあった・・。 BPO(放送倫理委員会)に電話をいれたのは『ニューステ』の上記「裏方暴言女」の件の直後だった。 「いつの何時何分ごろのことか分からなければ調べられません」のひとこと。 知人(学校警備員)に尋いても「イツだったかなあ・・?」というばかり、背後で労組の大江東が尾を引いていた。 法務省の人権擁護委員会には労組の告訴をする調査依頼のための手続きをしたのだが、「これだけの資料があれば勝てます。ただし当委員会は事実を調査することはできません。 労組の代表者を告訴しなさい」という回答だけだった・・。

 それにしても、「訴訟は数ですからね、世の中は数できまるんですよ、数が多くなきゃ勝つのは絶対二無理デス!」と、断言したI・S弁護士の言葉は忘れられない。 当人の長年の実定法の訴訟経験から割り出した言い分でもあろうが、司法に順応特化された“国家体質”と、あえて言えば「法の原暴力」と「正義の不可能性」(J・デリダ)にまったく無自覚な、猟官体質とでもいうしかない妄念に取り憑かれ官僚主義に汚染された者らに巣くう、法の正義(法維持暴力)に触れた思いがした・・・。

 寸言、こうした言及をしたのは、カレの所属した学校警備員労組に司法試験受験組や脱落組が10数名いたが、モノ言わぬ食客組の一人浜口昌顕は遠くから、(というのも近くで接したことがない)カレに通りすがりに何度か奸悪な罵声を浴びせてきたことがあった。  

浜口は久米宏よりひと月遅れで生まれてきた同年の輩だが、生涯を『六法全書』の丸暗記で過ごしてきた結果だろう、いわゆる、I・カントの「悟性」の理解能力域にすらも達していない「空っぽ野郎」である、(とは、司法組の故飯田一彦が浜口のお頭(つむ) について教えてくれた表現にもとずくが)ことは接しなくてもミエミエなことだったから放っておけばいいことだが、それにしてもこのクニの官僚組織の法規則万能主義が隅々まで浸透している非人間的な数々の現実を鑑みても、若い生身の感受性が、平然と殺人に及び死刑を望むような崩壊した 人間性のイメージが特殊な次元ではなくなったテロリズムの一般化してきた極限状況の発現から推し量るのだが、巨大な宇宙的な虚無の淵層が世界の終末を暗示して、死のギラつくまなざしを投影して現実の次元に浮上してきた、つまり存在の悪の形相が深層から浮上し、その破壊的暴力をして覆い尽くそうとしているのを感受しないわけにいかないのだ。

  ーー人間という類が存続するかぎり、存在の悪は消滅しない。 「絶対惡」とは存在の悪を比喩した謂いであり奈落に引き摺りこみ非情に裁く神の怒りの形相をして命じているごとくだ。 永久なる革命に臨む再生につぐ再生の無限意思もて起ちいき闘いいくか! と。

 

長文になりすぎた。 この2. 項は次回⑧に引き継ぐしかない。

 

                註1)  『本当のことを伝えない日本の新聞』                    

                                  M・ファクラー著 (双葉新書)

           註2)  『「自分の子供が殺されても同じことが言えるのか」と   

                      叫ぶ人に訊きたい』  森達也著(ダイヤモンド社)                                            註3)  『日本政治とメディア』 逢坂巌著(中公新書)