神の栄光のために人間は存在するのではない。(2015年8月6日より)

まだ封建制が生きている地域もある。大メデイアのインタビューも東京と島根や富山などと比較したものを放送しないので、この温度差が都会人にはわからない。

重要な点で間違えると自己浄化能力を持たない日本国家社会は最悪の状態を招く。すなわち膨大な国民、外国人の犠牲と国土の汚染、国民の実質的な奴隷化、漫画チックともいえる悲劇が演じられる。国家国民なくして資本家、官僚政治家ありの政策がおこなわれる。

本音とは何か?人によって単なる感情のことから熟考しての見解まである。ただ日本では本音を言うのははばかられる。公の公開公平の議論が行われにくいし、情報が常に隠蔽されやすいからである。

原発や戦争は日本人の人格を卑しくする。それが政権の狙いでもあろう。

民主主義や人権に敵対する愚か者を相手にする時間はもう日本にはないかもしれない。

楽観主義になるには柔軟に判断する遺伝子と環境が整ってること、そして子供時代にしっかりした信頼できる大人が身近にいることが必要だという研究がある。これらの条件が欠けている場合に多くの人はリスクを恐れ悲観的になり易い。

安倍の暴走を支えているイメージは、かつての軍部の甘い幻想と似ている感じがする。東条英機のような軽さが安倍にはある。戦前への復帰、ただし最高指揮官は天皇ではなくアメリカ、他の外国という事ぐらいしか確実な目標はなくそこに有象無象の輩が蜜を求めて集まって安倍をたきつけているのだろう。

自然法に従うというてもある。

単純化して安保法案を説明しているのは首相ではないか。国会審議も野党の質問に政府の説明はちんぷんかんぷん。デモを批判するなどおこがましい。言葉は重宝だ。

人を馬鹿にし快を得ようとしたり、他人の搾取の為の洗脳に邁進している連中を相手にしている時間はこの日本にはもう残り少ない。

意味とは人間にとってという暗黙の前提があるだろう。詩人のタゴールは人間のいない宇宙に科学は存在しないといった。必然も偶然も人間世界を前提にしている。従って問自体が意味をなさない。

法による近代は大量の暴力が終わった後である。フランス大革命、7月革命、1848年の革命、パリコミューン。

読売新聞とその系列のような新聞しかない地方があってその地域では国政選挙における一人あたりの参政権は、実質、東京の何倍ものになっている。この現状を踏まえないと本当は政治に影響力を持つことはできない。

タモリも不定形で政治的に保守的な人間だが、「笑っていいとも」に出演した安倍君はタモリに比べても、軽い薄っぺらいおしゃべり君にしかみえなかった。脳細胞の回路がかなり単純で固定化されているようだ。世襲制の弊害の一つか。(>_<)

彼は独裁者の器でもない。おそらく背後で操っている人間が複数いる。官僚(自衛隊も含めて)は言うまでもないが、おカネと権威の亡者たちがあやつっているのだろう。3ん代目のボンボンなど操るのは難しくはない。

正義は何かについては、一つの基準観念感情経験によっているだろう。政治的に言えばより多くの人に政治的経済的平等を実現させるのを正義とするか、ほんの一部の人間が大多数の人を隷属化させ、富や権力、情報を握り、わずかなおこぼれをその他の大多数人々に恩着せがましく与えるのを正義とするか。

普遍的善であれば命を懸けて行うのもいい。即ち神=普遍的善と己個人が向き合い恥じることのない行動である。日本社会の建前は普遍的善ではない。デカルトも日常的には「乳母のモラル」に従えばいい、といっている。

神風特攻隊を提案した軍幹部で特攻に行かなくて戦後天寿を全うした高級軍人がいたので私も行かなくていいんだよ。

かつて14年戦争というのを日本はダラダラやって、多くの犠牲者を敵味方でだす過程で、一部を除いて、日本人自身も戦争になじんで卑しく残虐な性格になって行った。日本人、日本社会には理性で自分自身に歯止めをかけることができない。だらだらと100年戦争に向かうだろう。

みなさんやりましょう。失敗する事を恐れても何にもなりません。失敗した処からまた始めればいいのです。君子豹変、ねばりで頑張りましょう。怒ったり諦めたりしないで。笑って笑って。

年齢不詳のときどきみかけるホ-ムレスふう汚い恰好の小女。何か哀れさを感じているのは自分が哀れであるからかもしれない。彼女自身は自分を何とも感じていないのだろう。たぶん。幸せなのかもしれない。

もっとやらねば行動せねばならぬことがあるはず。「死」を前にするとそれがわかるとも言われるが。

めんどくさいからやろう。と言っている西洋尼さんがいましたね。

犠牲になるのは富も権力も人脈もない一般庶民ですので。どっちにころんでも、官僚や政治家、それにつるむ連中はいたくもかゆくもない。ひょっとしたら管理国家にできるかもしれないことに期待しているのだろう。(マイナンバー制導入について)

狡猾の達人はその戦略を身体に表すことはない。いかにも思慮深く強い自信に裏打ちされ安定した言葉づかいをする。また体自身もお大きく均整さえ取れていることもあるか、恰幅がいい時もある。とてもかなわないと思わせるが話してみると、良くソクラテス並みの論理で話すと偏見を持っているただの人。

一億玉砕・一億総懺悔体制」から目覚めていますか?それともそれを推進しておるのか?人権と民主主義の原則を基礎として理性に従って、歴史や現況を見ればおのずと判断できよう。行動しよう。

政治的立場大体三つしかない(無関心は本来論外だが長く権力を握っている既成政治勢力に有利)国民の大多数の利益を図る立場、国民大多数の利益を優先させる装いしながら国民の一部の利益を優先させる立場、この間で揺れ動く立場。

東海のシールズ結成が遅れたのは、「ど祭り」に若いエネルーギーが持って行かれたからかもしれぬ。このエネルギーを安保関連法案反対運動に向ければ素晴らしいことになるだろう。

シールズの人たちは参院選のことも考えているようだが、田舎の自民党基盤が非常に強固であることを知って対策を練らねばならない。フジサンケイ系、日本放送、読売系とNHKのみが大メデイアである地方の人はまた、議員定数の不平等により都会より何倍も参政権がある。
アメリカは揺れの大きい国だ。禁酒法ができてそして廃止された国である。

ナチス政権下でも軍の最高幹部の間ではヒトラー暗殺計画がすすめられたし、ヒトラーが最後に全ドイツの破壊を命じてもヒトラーの親衛隊すらこの命令を無視している。そのような伝統は旧軍の伝統を受け継ぐ自衛隊にも日本社会にもない。

民主革命を成功させたことが一度もない民衆に政治家は恐れてはいないだろう。

田舎に行って、一人一人を説得する。リベリアのボランテイアの人達がエボラ熱の正しい知識を地方地方に出かけて広め、この病気の拡大を防ぎ、終息宣言させるまでにしたように。地方は地縁血縁義理人情優先で、封建的伝統が残っているところも少なくない。慎重さが必要でもある。(2015.9.16)



この世は所詮人間関係でできているし、生きることもこの関係の中で可能なのである。従ってこの中で人は喜怒哀楽、幸不幸、苦しみ楽しみを見出している。自己の楽しみ快楽、行動の様々な影響は他者の喜怒哀楽、苦楽、幸不幸を招く。何もしないと確実に人は苦しむことになるが一時的な解放の快楽に浸ることはできるので、人は孤独になるのをあこがれもする。また冷静な思考には一人で考えることも必要なので、ひとは考える経験を欲するので孤独になることも望む。しかし、人は単に暴力から恐怖から逃れるために孤独癖に陥ることもある。奴隷になることもある。この最後のものは絶対に避けるべきである。
人とつながる必要がこの時に、また勇気がこの時に必要となる。
暴力に単独に戦うには武力しかない。勇気を出して、相打ちを覚悟するほどの決意と戦術をもってすれば、物理的体力的に自分より巨大な個人すら倒せる。
物理的に個人として対抗しないなら狐の狡猾をもってすることだ。具体例は原則はあまたの古典やハウツーモノを見て訓練する事だ。練習は何事にも必要。人と接しこれを操るにも練習が必要である。自己を操るにも必要なように。
これを超えるものは聖なる権威しかなく、その究極の境地への到達は凡人の遠く及ばないところである。ただし人との結びつきで対抗するなら聖なる権威への行動方向は利用できるスキルである。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏・・・・・・・・・・・(聖人)
またぞろ、先祖がえりの人間が弱そうな、殺しやすそうな人間を殺す事件が発生して、マスメデイアに格好の仕事を与えている。
人間の殺人願望はどこかで現れてくる。昔から社会的に人殺しは様々な理由で行われた。個人的には怨恨や金、権力、権威、異性獲得などが通常のものだが、精神疾患としてのサイコパスや精神分析のものもある。文化的生物的社会的歴史的な諸事実から人間の殺人願望や習性を指摘することもできる。
生物学的に言えば他の動物に比較して霊長類は同種で殺し合いをする唯一の哺乳類と言えよう。チンパンジーは群れ同士で戦争して相手方を殺し、食べてしまう事もある。人間の歴史は戦争の歴史でもある。
戦場での殺し合いだけでなく、親しく付き合っていた同じ村人同士が二手に区別され一方が他方を拷問して虐殺した事件もある。また、先の大戦で、アメリカ軍捕虜を殺して食べてしまった日本軍人もいる。文化的には、生きた人間の胸を裂き心臓を取出し、神にささげ、それを食べる食人習慣も北米のアステカ文化に見られる。また、メキシコシティの歴史記念館にもなっている役所の壁画には、アステカ時代の市場の様子を描いたものがあるが、店の一つには店頭に人間の手足がつるされている。
人間を犠牲にして何か神に祈祷する習慣は広く見られる。マヤ文明などの乳児の生贄、日本では人柱の話、キリスト教国では悪魔信仰のうわさは絶えない。
こうしてみると人間はまず進化の過程で殺して食べる習慣を発展させ、これが同じ種である人間同士の戦いで他集団の人間を殺すことにそれほど違和感を与えない文明を作ってきたといえる。同じ集団での殺人は固く禁じられているが、人殺しの習慣は個人の心理的な快感を与える効果があることを犯罪心理学が示している。ただしこれは拷問をして殺すやり方によく現れている。過去の専制君主のこの種の例は珍しくもない。イワン雷帝やドラキュラのモデルになったトランシルバ王の事例。警察権力の拷問など。心理学実験の「囚人と看守」の実験は人が権力を持ったり、拷問が許されるといかに残酷になるかが確かめられている。
本来ならば、他生物を殺す行為は食物、異性獲得が出発点だったものが、権力権威という観念が伴ってきたため、観念操作が行われれば容易に殺人は発生することになる。自殺も殺人と考えると、このことはさらにわかりやすい。自殺は最も簡単にできる殺人でもある。日本社会も自殺の多い社会である。
若者の将来に対する希望、期待感の薄い社会であることは最近のアジア諸国の若者の意識調査でも表れている。日本が一番低いのである。これも死への刺激を求める背景になっている。
このような閉塞的なフインキだけでなく本人の資質や生育環境も殺人に向かいやすいものではないか。家庭環境は教育熱心で私立の高校を出て国立の名古屋大学に入ったとの情報から、観念操作や観念によって動く可能性が高いことが想像される。しかし、広い教養はなかったと推察される。
要は視野が狭い事であるのではないか。作家の故城山三郎氏が若き日、特攻隊に志願して海軍に入った。「勝利か死」しか頭になかったという。終戦、敗戦で日本が降伏したとき、ただ茫然としたという。彼はそこから、猛然と勉強、学習を始めた。自然科学以外の広い分野にわたって、読書だけでなくその種のサークル、団体に入って活動した。彼は大学の経済の教師になったが、小説もかきはじめ、またさまざまな人物の伝記みたいなものも書いた。
彼の猛烈な勉強学習と活動、日本ペンクラブ会長として言論の自由を制限する可能性のある法案に反対したのは、自分の青春時代の視野の狭さを反省したことにあるのは容易に想像がつこう。視野が狭ければ狭いほど容易に死ぬことも殺すことも(特攻は殺人でもある)疑問を持たなくなるのであるし、上記に書いたように本源的に人殺しには快感でもあることがこの行動を後押しする。
モラル、押し付けでないモラルの教育が社会になければ、個人個人が自律的にモラルを作らないと、この人間の本性の一つを抑えることは困難である。
なお、恐怖の統制というもの、徹底した洗脳でも可能だがこれは別の問題を生む。